OSHOの身体の痛みと衰弱

OSHOのように覚醒を得た人というのは、痛みから意識的に分離することができるようです。

それはインドの覚者の物語などをいろいろ読んでいると、時々、そういう場面が書かれてあったりします。
そういう弟子の手記によると、通常なら麻酔が必要な手術などでも、平気でいたりするようなのです。

そういう物語を読んでいるときには「ほんとかなぁ?」と思いながら読んでいたのですが、実際に目にしているOSHOの話として読むと、またリアリティが変わってきます。

そういうふうに痛みを感じないでいられるのは、意識を身体から分離させておくことができるからなのだそうです。

今回のシュンニョの体験は、まさにそのような場面です。私たちも、痛みが許容限度を超えると、無意識になって、自動的に意識が身体から離れてしまうようです。要するに気を失ってしまうのです。

私にも、そういう経験があります。

ずいぶん以前のことですが、あるとき、咳をしているうちに、だんだんと腰に力が入らなくなって、ついに立つことができなくなり、手をついて四つ足のようにして移動することしかできなくなってしまったことがあります。

おかしな現象に慌てた私は、整体をしている友人に電話をかけて相談したところ「横になって、両足を持ってもらって、揺らすようにするといいよ」とアドバイスを受けたのでした。

そこで、両足を持ちあげてもらって、両足を左右に揺らしてもらったところ、腰に無理な力を加えることになってしまい、腰に激痛が走り、1ミリも動けなくなってしまいました。

ほんとうに、激痛で1ミリも動けなくなってしまったのです。
病院に行こうにも、救急車で来てもらっても「担架に移動するのも無理!」という状態になってしまいました。

寝たきりのまま、動けない状態になってしまったのです。そのまま眠ってしまったようで、ふと意識が戻るとどこも痛くありません。「あれ、あの痛みはどこに行ったんだろう?」と思ったとたん、意識が身体に戻ってくるのが感じられ、意識が身体に戻ったとたん、身体の重みと痛みを感じることになりました。
そこには、相変わらず1ミリも動けない自分がいたのでした。

つまり、ひと晩意識を失ったままの状態にあったようでした。意識が戻ってきたときには、眠ってしまったときと目が覚めた時と、1ミリも身体が動いていなかったのに気がつきました。

そのときに「痛みが限度を超えると、意識は身体を離れてしまうのだ」ということを身をもっていた件しました。そのような、意識と身体が分離する体験は何度かありますが、覚醒した人は、意識的に痛みと意識を分離させることができるのだろうと思われます。

「身体はあなたではない。あなたは純粋な意識だ」というようなことをOSHOが言っているのをよく耳にしますが、OSHOのような人は、常日頃「肉体が自分ではない」という状態にあるのでしょう。

それにしても、OSHOはアメリカで盛られた毒の影響で、このころには、ますます身体が衰弱し、原因不明の痛みにも苦しめられていたのです。

シュンニョは語ります。

私がOSHOのそばで暮らすようになってはじめて、彼はときどき講話を休むようになりました。
日によっては、あまりにも身体が弱って、みんなの前で講話をすることもできなくなったのです。
あまりにも関節が痛むので、一日中ベッドに横たわっているしかありませんでした。

こういった状況でOSHOを見ていると、彼は自分の痛みから完全に分離しているのがわかりました。
抜歯したその日のうちに、2時間にもわたる講話をしたりするのです。

また、あるときは、OSHOがアシュラムにいるアヌブッダという名前のボディワーカーからマッサージを受けたあと 肩の関節に注射してもらうのを見ました。

アヌブッダと私は床に座って、OSHOと話をしていましたが、医者はその間に準備を整え、このやっかいな注射にとりかかりました。

医者は骨のあいだの適切な位置が見つけられずに、何度も注射をやりなおしました。
OSHOの身体に針が突き刺さるたびに、アヌブッダと私はぎくっとしましたが、OSHOはくつろいだまま、私たちとの会話をつづけました。

呼吸が変わったり,彼の表情が変わったりすることさえ、まったくないのです。
後にOSHOはアヌブッダに、光明を得た人は実のところ 痛みにとても敏感なのだが、自分は痛みから分離していると感じられるのだと言いました。

OSHOを見ていて、彼が心配したり、恐れたりしていると感じたことは一度もありません。
そして、これは自分を 観察していてわかるのですが、人を弱くするのは、痛みに対する心理的な恐怖、未知の体験に対する恐怖です。

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)