シュンニョのOSHOとのダイヤモンドの日々

シュンニョのOSHOとのダイヤモンドの日々とは、どのような日々だったのでしょうか?

マスターとともにいるというのは、しかも身近にいるというのは、とても大変なことです。
マスターの弟子へのワークは、ダイヤモンドをカットするようなワークなのでしょう。
原石からその内なる美しさを輝かせるために。シュンニョは、そのようなカットされる場面をいくつも通り抜けてきました。
それは彼女の「関係性」でのワークも、そのひとつの場面であったでしょう。

シュンニョは「1987年1月のはじめにプーナに戻ってきたとき、私は前にそこを離れたときから、百歳以上も 年をとったかのように感じました。私はそのあいだに、何回もの生、何回もの死を味わいました。花の咲きみだれる庭園にもいました。その庭園が破壊されるのも見ました」と書いています。

アメリカに渡り、ワールドツアーを経て、再び、もといたプーナに戻ってくるまでの7年間の間に、さまざまなできごとがあり、そのできごとを彼女はこの手記のなかでかいま見させてくれています。

ダイヤモンドをカットするような大変な時期があり、かつまた、ただダイヤモンドが光に輝くような日々もありました。それは、ごくあたりまえなOSHOの日常のさりげない、ささやかなできごとであったりします。でも、そのような「もっとも貴重なダイアモンドは語られないままに残るのです」

シュンニョはOSHOの日常のひとつのエピソードして、OSHOの贈りもののことを書いています。
私にもいくつかの思い出がありますが、これについては、また語る機会もあるかもしれません。

シュンニョは語ります。

「私のダイアモンドの日々は、ただダイアモンドをカットするだけの日々ではありませんでした。
ただ、光に輝くような日もたくさんあったのです。

それはOSHOのそばにいて、彼のためにささやかなことをする日々でした。
彼に食事を運んでいくこと、彼の服を洗うこと、ただ彼のそばにいて、彼のシンプルな生きかたを見つめていること。

彼はとても全面的に、そして静かに、やさしく生きました。
彼がささいなことをするのを目にするのは、それだけで満ち足りた体験でした。

それはたとえば、 いつもベッドの脇に置いてあるハンドタオルをたたむ彼の姿を見ることです。
でも、こういったささいなことは、言葉では語りきれません。
ですから、もっとも貴重なダイアモンドは語られないままに残るのです。

……

タイから戻ってきたヴィヴェックは、名前をニルヴァーノと改めました。
「新しい出発」という意味 です。

彼女はイミテーションのゴールドと、ダイアモンドでできた時計をたくさんお盆にのせて、それをOSHOに贈りました。

OSHOはその時計をとても気に入りましたので、その後もいろいろな人が、似たような時計を贈るようになりました。

OSHOは自分がもらった時計をほかの人にあげました。
バンコクヘ行く人がいたら、私たちはかならずその人に、OSHOのためにそうした時計を買ってくるように頼みました。OSHOがそれを誰かへの贈物にできるようにです 。

OSHOは贈物をするのが大好きでした。
とても高価なものも、ささやかなものも、同じだけの愛をもって贈るのでした。

なにを誰に贈るかというのは問題ではありません。
私たちは、OSHOのための戸棚を用意しました。
戸棚は彼に贈られた品々でいっぱいになりました。

それらの品々のなかから、彼は心をこめて、みんなへの贈物を選びました。
彼はしばしば戸棚を開けて、みんなに贈れるどんなものがあるか見ていました。
OSHOはしょっちゅう、私をバスルームに呼びました。

彼はインド式にしゃがんでバスルームの棚をのぞきこみ、シャンプーやクリームを取り出しては、これは誰それにあげなさい、これは誰それにあげなさい、といったぐあいに指示しました。

7時2、3分前、ブッダホールに向かう寸前の時間に、こんなふうにして12個以上の贈物を渡されることもありました。

OSHOはブッダホールからの帰り道に、もう贈物は渡したかねと私に聞きました。
OSHOとともにあっては、すべては「いま」なされるのです。
彼にとっては「いま」が唯一の時なのです」

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)