OSHOの重体

OSHOが肉体を離れたのは1990年1月19日のことです。

ですから、OSHOが一時期重体となり、危篤に陥ったのは、そのほぼ1年前のことになります。
このシュンニョの記事を読むと、OSHOはすでに自分の死期をさとって着々と準備をしていたことになります。

しかし、まわりの人たちは、できるだけその事実は見ないようにしたいと思っていましたが、それは避けられない事実であることも明らかになってきました。

OSHOが自分の寝室のためにと言って設計していた部屋は、多くの人たちの目には、それはほんとうは寝室ではなく墓廟なのだということがはっきりしたのです。

そして、今ではその部屋はサマーディとして、みんなが静かに瞑想をする部屋となっています。
その部屋の静寂のなかに坐っていると、まるで宇宙船に乗って、宇宙のなかにいるような錯覚にとらわれるほどの静寂があります。

シュンニョは語ります。

1998年、OSHOの誕生日である12月11日の4日前から、彼は重体になりました。

ニルヴァーノとアムリットがOSHOの世話にあたり、私は彼の部屋の、すぐそばの部屋で洗濯をしていました。
ラオツーハウスは死んだように静まりかえり、暗く感じられました。彼が重体なのは私にもわかりましたが、どうしてそうなったのかも、どこが悪いのかもわかりませんでした。

やがて、まる一週間も彼の洗濯物をひとつも受け取らないことがありました。彼はベッドに横たわったままで、入浴も、着替えもしていないのでしょう。

OSHOは自分が重態なのを、けっしてみんなに知らせようとはしませんでした。それを知ったらみんなは心配し、絶望し、アシュラムのエネルギー全体が沈滞してしまいます。それはなんの足しにもならないのです。この数週間のあいだに、彼はほとんど死にかけました。

 ……

1978年 「なぜ、あなたは自分をバグワンと呼ぶのですか?」という質問に答えて、OSHOは次のように語ったと『The Sound of Running Water』という本に記録されています。

「私の弟子たちが意識において、ある水準に達するのを見届けたら、私はバグワンという名前を落とす」

1989年1月7日、バグワンという名前を落とし、彼はただ、シュリー・ラジニーシとして知られるようになりました。同年の9月、彼はラジニーシという名前も落とし、彼には名前がなくなってしまいました。

「あなたを和尚と呼んでもいいでしょうか」と私たちは尋ねました。
和尚というのは名前ではなく、日本で禅のマスターに呼びかけるとき、ふつうに使われた言葉です。

その2カ月ほど前のこと、OSHOはチャンツー • オーディトリアムを改装して、彼の新しい寝室にするようにとアナンドに指示しました。アナンドは工事を担当する人たちを見つけました。世界中に資材が発注され、工事は進みました。

OSHOは、それが彼の望むような姿にできあがるよう、詳細な指示を与えました。
表面的には、彼は今度こそ自分がほんとうに求めていたような寝室を造らせたいと思っているようにも見えました。彼は2、3度工事の現場にも姿をあらわし、細部についてアナンドと打ち合わせました。

彼が自分の部屋の調度についてあれこれ言うのは、それがはじめてでしたから、私たちは、ついにこういう日が来たことで大喜びしました。それに、彼が以前から使っていた寝室は、湿度が高すぎました。そのうえ、彼はほとんどの時間をベッドですごしていましたので、暗くて洞窟のようでした。

やがて部屋にはイタリア産の白大理石が敷きつめられ、直径6メートルもあるクリスタルグラスのシャンデリアの光が、濃紺のガラスに反映するようになりました。

そして多くの人たちの目には、それはほんとうは寝室ではなく墓廟なのだということがはっきりしたのです。私たちはそのことに気づいてはいても、それについて考えないようにしていました。和尚が彼自身のサマーディを造っているという、あからさまな事実を直視するのを拒んだのです。

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)