自由と責任

OSHOはアメリのコミューンではゲストとして、3年半の間、沈黙のなかに過ごしていました。

毎日プールで泳ぎ、ドライブに日に1度か2度でかけ、あとはただ沈黙のなかに過ごしていました。
そのOSHOは口を開き、話しはじめる時が来ました。

ヴィヴェックはOSHOの身の回りを世話していましたが、シーラはコミューンを支配しようとしていました。
そしてヴィヴェックとシーラは犬猿の仲でした。

シュンニョはその様子を次のように書いています。

「ヴィヴェックはシーラをまったく信頼していません。
ですからシーラはOSHOの住まいの鍵を持たせてもらえませんでした。

シーラがOSHOに会いに来るときには、まずヴィヴェックに電話しなければなりません。
そうすると、約束の時間ぴったりにドアは開けられ、そのあとすぐに閉められるのでした。

シーラは私たちの住まいを通り抜けるのも禁じられていたので、側面の扉からOSHOのトレーラーに入らなければなりませんでした。

それは彼女が私たちのトレーラーに来るたびになにかの面倒を引き起こしていたからですが、もちろん彼女のほうはこれを侮辱と受け取って、腹を立てていました。
ほんとうに権力を握っているのはだれなのかはっきりさせたかったのです。

こうした一見すると小さなごたごたについて、シーラはOSHOに話しませんでした。
OSHOが打開策を授けたならば、それによって自分の権力が減ってしまうことを知っていたからでしょう。
私も彼に話しませんでした。
なぜならそうしたごたごたは、ラジニーシプーラムの大きな成長にくらべれば取るにたりないことのように思えたからです。

シーラが私たち(OSHOの家に暮らしている人たち)に怒りを見せ、意地悪にふるまっても、とりあえず私たちが彼女の怒りのはけ口になっていれば、彼女はコミューンのたの人たちに対してまっとうにふるまうだろうーー
そういう幻想を抱いていたのです。私はうぶでした」

このような状況に終止符を打つ状況が訪れたのです。

ちょうど車のなかを飛び回るハエを追い払うためにOSHOが車の窓をスルスルとおろした瞬間です。

これらの状況を見て取ったOSHOは3年半の沈黙を破り、再び語りはじめたのです。

それはコミューンに状況に対してどのように責任を取るべきなのかということをも含むメッセージでした。
それは自分の人生にどのように責任を取るのかということでもあります。

シュンニョはその状況を次のように書いています。

シーラとのミーティングのためにジーザスグローブ(シーラの居住していた家)を訪れたヴィヴェックは、出されたお茶を飲んだあとに気分が悪くなり、シーラに連れられて家に戻ってきました。

私は洗濯部屋の窓からふたりを見たのですが、ヴィヴェックはシーラに支えられ、ほとんど歩けないようでした。
デヴァラジが彼女を診断しました。
脈拍が160から170にまで上がっていて、鼓動も不規則でした。

その2、3日後、OSHOはそれまでの沈黙を破り、彼の居間で講話をはじめました。

居間には50人ほどしか入れませんでしたので、私たちは順番に出席しました。
講話はビデオに収録され、つぎの日の夜に、コミューンの全員が集まるラジニーシマンディールで上映されました。

OSHOは服従と反逆について、自由と責任について語りました。
「あなたがたをファシスト政権の支配下に放置するつもりはない」とまで言いました。

「とうとう私は自分が話すべきことを受け容れられる人たちに向けて語れるようになった」とOSHOは言いました。

それまでの30年間、彼は自分のメッセージを伝えるにあたり、それを仏陀、マハヴィーラ、キリストなどの言葉だと偽って伝えざるを得なかったのでした。

今度こそ彼は宗教に関する赤裸裸な事実を語ろうとしていました。
OSHOは何度も強調しました。

──処女から生まれなくても光明は得られる。
光明を得た人々にまつわるすべての逸話は僧侶たちのこしらえた嘘だ。

「・・・私はあなたと同じような、あらゆる弱さ、あらゆるもろさを備えた、あたりまえの人間だ。
これはくりかえし強調しなければならない。
あなたはこれを忘れがちだから。
どうして私はこれを強調するのだろう? 
とてもたいせつなことをあなたがたが理解できるようにだ。
あなたと変わらぬあたりまえの人に光明が得られるなら、あなたにとっても問題はない。
あなたにも光明を得られる・・・」

「私はあなたがたに、なんの約束も、なんの動機づけも、なんの保証も与えてこなかった。
あなたがたの取るべき責任を私が肩代わりすることはない。
それはあなたがたを尊敬しているからだ。

私が責任をとるならば、あなたがたは奴隷になる。
私は指導者となり、あなたがたは追随者となる。私たちは旅の道連れだ。

あなたがたは私の後に従っているのではなく、ただ私とともに在り、私と並んで歩いている。
私はあなたがたよりすぐれた人間ではない。
あなたがたのあいだにいるひとりの人間にすぎない。

私は自分がすぐれているとか、非凡な力を持っているとは主張しない。
わかるかね? 
あなたがた自身にみずからの生への責任をとらせることは、あなたがたに自由を与えることに等しい」

「自由は大きなリスクだ・・・
ほんとうのところ、だれも自由になどなりたくない。

口先だけのことにすぎない。
だれも依存したがっていて、他人に責任をとってほしがっている。

自由において、あなたにはすべての行為、すべての思考、すべての動作に責任がある。
どんなことであれ他人のせいにはできない

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)