OSHOの最後の一撃

コミューンの状況を見て取ったOSHOが、ついに最後の行動を起こしました。

なんとコミューンのなかで殺人未遂事件が起きたのです。

その状況を見て、OSHOはシーラが住んでいたバンガローのあるジーザズ・グローブで、報道関係者と会見するようになったのです。

そしてシーラからOSHOへの手紙について、OSHOは講話のなかで明らかにしました。

その際のOSHOのシーラへの提案は実に意外なものでした。

しかし、そのことによって、シーラは15人ほどの仲間を連れて飛行機で去ったのでした。

まさに「ハエがそばまで飛んできたときに、彼がほんのわずかに手を動かすと、ハエが窓から飛び去った」瞬間でした。

シュンニョの当時の状況についての手記を読むと、すでにアメリカ政府はコミューンを破壊するために、そのための準備を着々と進めていたこともわかります。

州警察による警察隊のコミューンへの襲撃命令までも出ていたのです。
そのような大量の銃器などなかったのにも関わらずです。

コミューンで銃を保持していたのは、州で正規の訓練を受けたコミューンの警備隊だけで、それはアメリカなら普通のことで、他の地域で警察隊が銃を保持していたのと同じです。

内側からも外側からも、コミューン崩壊の危機が迫っていたのです。

このようなことがあの美しいコミューンの背後で進行していたとは、まさに事実は小説よりも奇なり。
想像もできないことでした。

まさに映画を見ているようなシーンです。
これらのできごとから、権力というものの本質、自由と責任のありかた、アメリカ政府の実態ということについて多くのことを学ぶことができました。

シュンニョは書いています。

シーラの側近のナンバーワンのシャンティ・バドラがデヴァラジ(OSHOの側近の医師。のちにアムリットー筆者記)を殺そうとした──そういう噂がささやかれているのを耳にしました。
それといっしょに、それを否定する噂も聞こえてきました。
デヴァラジは頭が混乱しており、しかも重態だ。脳腫瘍かもしれないという噂です。

デヴァラジが仲間のサニヤシンに毒を注射されたなどというとんでもない話を信用する人などいません。
デヴァラジは、起こったことについて相手かまわず叫びたてることはせず、病院で自分の治療にあたった医師たちをふくめ、だれにも事実を話しませんでした。

もしもデヴァラジが騒ぎたてていたなら、それを機会に警察がコミューンを襲撃していたでしょう。
デヴァラジにはそれを察するだけの気づきがありました。
州警察の警官隊がコミューンへの襲撃命令のために待機しているという噂がありました。
のちに公文書からあきらかになったのですが、それは事実でした。

一方外部では、コミューンには大量の銃器があるという誇張した噂が広がっていました。
だれも事実を確認しません。

コミューンで銃を保持しているのは、州で正規の訓練を受けたコミューンの警察隊だけで、それはアメリカの他地域の警察隊と同じように銃の保持を許されていたのです。

デヴァラジは病院のベッドで殺されるのを恐れていましたが、殺されずにすんだなら、かならずラジニーシプーラムに戻らなければならないと思っていました。

そこでデヴァラジは、マニーシャ、ヴィヴェック、ギートにだけ自分に起こったことを話しましたが、3人は証拠をつかむまでは黙っていることに決めました。
デヴァラジの精神状態をいぶかる人もいたからです。
デヴァラジは、ふたたび襲われたら防ぎようのないような状態で寝ていたのですが、それでもすべてはいつもどおりであるかのように毎日をすごしていました。

デヴァラジがどれだけの信頼をもっていたか想像してください。
彼の正気を疑う友人たちと、彼を殺そうとし、ふたたび殺そうとするかもしれない人たちのなかにいたのです。

デヴァラジが病院から戻ってきた日からOSHOはジーザス・グローブで、報道関係者たちと会見するようになりました。

ジーザス・グローブとは、シーラが仲間たちと住んでいた棟の長いバンガローの名前です。
OSHOが夜に訪れて話をするときのために大きな部屋が用意され、OSHOのために室温はとりわけ低く調節されました。

世界中のジャーナリストがOSHOにインタビューしました。
OSHOがジーザズ・グローブに着いたときとそこを去るときには音楽が演奏され、OSHOは廊下やドライブウエイをいっぱいにした人たちと踊りました。

シーラの手下になっていて、自分のマスターがだれなのかわからなくなっていた人たちにとって、これこそまさに、それがわかるようになるための機会でした。

OSHOはマンディールにもあらわれて、私たちと踊りました。
ポディウムの上にきて踊るよう人々を招くこともありました。
OSHOは私たちのディスコやオフィスや医療センターにも姿を見せました。
彼はその臨在をラジニースプーラム全体に輝かせました。

彼はみんなに見せていたのです。
「見てごらん。私は神ではない。あなたと同じあたりまえの人間だ」

私にとって、OSHOをあたりまえの人間として見ることはむずかしいことでした。
OSHOがどれだけ人間的であったか、そしてどれだけあたりまえの人間であったか、さまざまなかたちでそれを思い出して圧倒されたのは、彼が肉体を離れてからのことでした。

彼をあてにすることができなくなってはじめて、彼の謙虚さや肉体的なもろさが理解できるようになったのです。

OSHOを神のような存在として見ていたころの私には、みずからが光明を得ることへの責任を回避することができました。
OSHOをはるかかなかたの存在として見ていたように、みずからが成就することもはるか先のこととして考えていました。
だらか私はいびきをかいて、夢を見ていてもかまわないと思っていたのです。

デヴァラジは健康を取り戻しつつあり、シーラは2、3週間の予定でコミューンを離れました。
ヨーロッパやオーストラリアなどのセンターを訪問することになっていました。
コミューンの外部では彼女はいまだにスターでした。

シーラはOSHOにこんな手紙を書きました──「ラジニーシプーラムに戻っても楽しくありません」

1985年9月13日の金曜日、OSHOは講話中、みんなの前で彼女の手紙にこう答えました。

「彼女はおそらく無意識だ──これはみんなのいる状況だ。
ここにいても楽しくなくなったのはどうしてなのか気づいていない。
それは、私が話はじめてからというもの、彼女は注目の的ではなくなったからだ。

彼女はもはや重要人物ではない。
私が話しはじめてからというもの、
私の考えていることをあなたがたに伝えるための仲介者としての彼女は不要になった。

私みずからが新聞やラジオやテレビの取材陣に向けて話しているので、彼女の影は薄れてしまった。
この3年半、私が沈黙していたからこそ、彼女は脚光を浴びていた。

ここに戻っても楽しくないのにヨーロッパでは幸せなのはどうしてなのか、彼女にはよくわからないのだろう。
ヨーロッパでは、彼女はいまだに重要人物だ。
記者会見、テレビ出演、ラジオのインタビュー、新聞の取材など。

だが、ここではもう、そうしたことすべてが、彼女のすることではなくなってしまった。

私がここにいるあいだにでさえ、あなたがたが、こんなふうな、愚かで無意識なやりかたでふるまうようならば、私がいなくなるやいなや、あなたがたは、あらゆるたぐいの政治や争いをはじめるようになるだろう。
そうなったら、あなたがたと外の世間とのあいだに、なんの違いがあるだろう?

それでは、私の努力がすべて無駄になってしまう。
私はあなたがたに、真の新人類としてふるまってほしい。

理由はこのとおりだと私はシーラに伝えた──

「これについてよく考えてから私に答えなさい。
あなたが楽しくしていられるように、私に話すのをやめてほしいなら、私は話すのをやめてもよい」

私はそれでもかまわない。
実際、それはひと苦労なのだから。
1日5時間、私はあなたがたに話をしてきたが、おかげで彼女のマインドには不幸が生じた。

それなら彼女にショーをやらせよう。
私は沈黙に戻ればいい。

だが、このことではっきりしたのは、
権力を握る人たちは、内心深いところでは私がここで生きているのを喜んでいないということだ。

私がここにいるうちは、だれもパワートリップをできないから。
彼らはこれに気づいていないかもしれない。
あなたがたのパワートリップは、状況のなかでしか見えてこない」

翌日、シーラは15人ほどの仲間をつれて、ラジニーシプーラムを飛行機で去りました。
シーラたちはアメリカを離れ、私たちの人生から姿を消しました。

OSHO のシーラへの提案は、
「あなたが楽しくしていられるように、私に話すのをやめてほしいなら、私は話すのをやめてもよい」
ということでした。

どこまでもOSHOは、だれに対しても強制せず、干渉せず、その自由を尊重していたのです。

シーラは開いた窓から、飛び去ったのでした。

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)