どうして一息に殺さなかったのだろう?
OSHOにタリウムの毒を盛ったときのアメリカの大統領はレーガンでした。 レーガン自身は、その後アルツハイマーになって亡くなりましたが、OSHOに盛られた毒は本当にOSHOを苦しめるものでした。 それはOSHOをして「ど…
OSHOにタリウムの毒を盛ったときのアメリカの大統領はレーガンでした。 レーガン自身は、その後アルツハイマーになって亡くなりましたが、OSHOに盛られた毒は本当にOSHOを苦しめるものでした。 それはOSHOをして「ど…
シュンニョがマスターとともに日々を過ごすのは、ダイヤモンドのように輝けるときもありますが、ダイヤモンドがハード(硬い)のように、同じようにハード(苛酷)なときもありました。 人それぞれの無意識のなかにある条件づけというの…
OSHOの講話は、このブログでも紹介したOSHOのYouTubeの動画のはじめに流れるメッセージにもあるように、彼の言葉を聞くというよりも、そこにある静寂に耳を傾ける感じです。 言葉を聞くよりも、その言葉と言葉のギャップ…
この時期、1987年から1989年にかけて、プーナの瞑想コミューンは活気に溢れていました。 OSHOの講話も活力に溢れたものでした。とはいうものの、OSHOが講話をしなくなる1年ほど前からは、講話の出だしのときの声は、力…
身体の衰弱したOSHOが少しでも歩くことができるようにと作られた「ウォークウェイ」…ガラス張りの遊歩道ですが、ジャングルのように植物が生い茂った庭にあります。今ではビパサナ(静かに坐って、呼吸を見つめる瞑想)に使われてい…
シュンニョのOSHOとのダイヤモンドの日々とは、どのような日々だったのでしょうか? マスターとともにいるというのは、しかも身近にいるというのは、とても大変なことです。 マスターの弟子へのワークは、ダイヤモンドをカットする…
1987年当時、私がプーナの瞑想アシュラムに滞在していたときにも、OSHOがいつ講話に現れ、いつ現れないのかは予測できない事態になってきていました。 そしてOSHOの血液や毛髪などが専門家によって検査されていることなども…
OSHOのように覚醒を得た人というのは、痛みから意識的に分離することができるようです。 それはインドの覚者の物語などをいろいろ読んでいると、時々、そういう場面が書かれてあったりします。 そういう弟子の手記によると、通常な…
OSHOは、真理の探究やスピリチュアルなものごとに関してのマスターですが、質問によっては政治的、社会的な問題についてもストレートに言及していました。 そういう問題については微妙な問題もあって、誤解を避けるためには問題を避…
シュンニョがここで書いていることを読むことで、その時期をOSHOとともに過ごした私には、そのときの体験がありありと思い出されます。 「そしてOSHOは、私たちと踊るようになりました。講話のためにチャンツー・オーディトリ…