セックスと死 その1

OSHOの講話は私たちに「理解の錬金術」をもたらしてくれます。 

この「セックスと死」についての講話は、そのことに理解をもたらし、その理解から気づきが生まれ、講話を聴くことで、「セックスと死」についての理解と瞑想が生まれてくるのです。OSHOのひと言ひと言には瞑想のヒントがあり、気づきと驚きがあります。

「瞑想とは気づきである」

と、OSHOはあちこちで話しています。「気づきってなんだろう」と思っていたときに、理解しようと試みることによって、あなたとそうした事柄とのあいだに、なんらかの距離ができる。さらにまた、たとえそこにそうしたものがあっても、自分はそれと同一ではないと思えるだけの気づきが生まれるというOSHOの言葉があれば、気づきとは理解しようと試みることによって生まれるものなんだ、という理解が生まれます。そして「理解しようと試みること」の意味はなにかというと、あなたと、そうしたことがらとのあいだに、なんらかの「距離ができる」「自分は、それと同一ではない」と思えるということなんだということが、気づきのエッセンスということがわかります。そして「セックスは死の分割払いなのだろう。そして死は、セックスの一括払いだなんていう言葉を読むと、OSHOって、なんという言葉の魔術師なんだと思えます。そのひと言のなかに、セックスと死についてのある理解が生まれます。

シュンニョは語ります。

カトマンドゥにいるとき、私はOSHOに次のような質問をしました。
彼の答はすばらしいものでしたので、 ここにその全文を収録することにしました。

愛するマスター、私はこの2、3週間、セックスと死にまつわる強烈なフィーリングを味わっています。その理由を知る必要があるでしょうか

OSHOの答を引用します。

自分のマインドがどんなふうに動いているか、自分のハートがどんなふうにしているか、自分の内面でなにが起こっているのか、そうしたことを理解するのは、つねに必要なことだ。理解しようと試みることによって、あなたとそうした事柄とのあいだに、なんらかの距離ができる。さらにまた、たとえそこにそうしたものがあっても、自分はそれと同一ではないと思えるだけの気づきが生まれる。

これはおおいなる『理解の練金術』だ。

内面に起こるすべてのことを理解しようと試みなさい。
理解しようと試みることで、あなたはそれから分離する。それは客体となる。

あなた自身は、けっして客体とはならない。
あなた自身はつねに主体だ。
あなたの主体性が客体に変わることはない。
だから、試みることによって、あなたとあなたのフィーリングのあいだには充分な距離ができる。以上が第一のことだ。

そして第二のこと。この距離のおかげで、あなたは自分に起こっていることを理解するかもしれない。なにごとも原因なしには起こらない。

そして時には、起こっていることはとても根源的だ。
たとえば、あなたがしたのはとても根源的な質問だ。

それはセックスと死の結びつきについてだ。
あなたがその結びつきをはっきり見ることができれば、死とセックスとのあいだの差異はしだいに消えてゆき、両者はほとんど単一のエネルギーになる。

おそらく、セックスは死の分割払いなのだろう。
そして死は、セックスの一括払いだ」

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)