「和尚と過ごしたダイヤモンドの日々」
この本は絶版になっています。
シュンニョが体験したOshoの全容はこの本に書かれています。
このブログで紹介するのはそのごく一部です。
さて、今回はその本の中から、Oshoの臨終の場面をご紹介します。
Oshoの医師のアムリットとOshoの右腕となって実務的なワークを
任されていたジャエッシュが同席しました。
死を前にして、ちょっと週末の旅行にでも出かけるような
Oshoの落ち着き払った言動には驚かされます。
アムリットは、Oshoの手を取って泣いてしまうと、
それは「やり方が違うだろう」と諌めます。
すぐに泣くのをやめるとOshoは美しくはほえみました。
Oshoの教えでは、死は悲しむべきときではなく、
お祝いのときなのです。
そんなことがあり得るのか? と思いますが、あり得るのです。
死ぬときには、あのようにお祝いしてもらいたいものだと思うほどです。
Oshoが肉体を離れた後、
Oshoが普段使っていた寝室の改装がなされ、
公開されたことが一度ありました。
それは、Oshoの遺言に基づくものでした。
Oshoの臨終の際に、
アムリットが寝室をどうすれば良いかをOshoに聞いたときに、
次のような会話がありました。
「『この寝室はこのままの状態で残しておきたい』
と私が言うと、Oshoは
『それならきれいにしなさい」
と言い、
床の大理石を貼るように指示しました。』」
その部屋が公開されたとき、私はアシュラムにいたので、
その部屋を見ることができました。
公開されたOshoの住んでいた部屋は、ほんとに小さな方丈のような部屋でした。
しかも、驚いたことに、
その部屋にある「静けさ」「沈黙」が手に触れられるほどに
ジンジンと体がしびれるほどに感じられたのです。
沈黙がそのように手に触れられるほどに感じられるなんて、
予想もしていないことだったので、ほんとうに驚きました。
Oshoが長年そこに過ごしたことによる波動によるものだったのでしょう。
シュンニョは語ります。
Oshoが肉体を離れるとき、アムリットとジヤイエツシュが
そばにいました。
これから引用するのは アムリットの言葉です。
その夜 (1月18日)のあいだ、Oshoはますますからだを弱らせて
ゆきました。からだのどんな動きにも激痛が伴うのがわかりました。
昨日の朝、彼の脈が弱まり、しかも少し不規則になっているのに気づきました。
「あなたは死につつあるのだと思います」と私が言うと、彼はうなずきました。
心臓の専門医を呼んで心臓蘇生の準備をさせましょうかと私は尋ねました。
すると彼は
「いや、ただ私を行かせなさい。存在がその時期を決める」
と言いました。
Oshoがバスルームに向かうのを助けているとき、彼は言いました。
「それからここにカーペットを敷きつめなさい。バスマットのように」。
それから彼は、どうしても自分の椅子まで歩いて行きたいと言いました。
彼は椅子に腰を降ろし、部屋のいくつかのものをどうするか決めました。
「これはだれにあげたらいいかね?」
小さなステンオを指して言いました。
「オーディオだね? ニルパが気に入るかね?」
と私に尋ねました。
ニルパはもう何年もOshoの部屋を掃除しています。
それから彼は注意深く部屋を見渡し、ひとつひとつのものについて指示しました。
「あれは取り外しなさい」と除湿器を指して言いました。
音がうるさすぎると彼が少し前に指摘していたものです。
「そして一台のエアコンはいつもつけておくように」とも言いました。
それは信じられないような光景でした。
実に単純で、きわめて具体的で正確なやりかたでした。
彼はすべてに目をやりました。
彼はとてもくつろいでいて、
まるでこれから週末の旅行にでも出かけるようでした。
彼はベッドに腰を降ろし、私は彼に
「サマーディ(霊廟)はどのようにしましょうか」
と尋ねました。
「私の灰をチャンツーに収めなさい。
ベッドの下だ。そうすれば、みんながそこに入ってきて
瞑想できるようになる」
「それでこの部屋はどうしましょうか?」
と私は尋ねました。
「この部屋のほうがサーマディにいいかね?」と彼は尋ねます。
「いいえ、チャンツーのほうが美しいと思います」と私は答えました。
この寝室はこのままの状態で残しておきたいと私が言うと、彼は
「それならきれいにしなさい」
と言い、床の大理石を貼るように指示しました。
「セレブレーションはどうしましょう?」と私は尋ねました。
「私を十分間だけブッダホールに連れて行きなさい。
それから焼き場に運びなさい。私のからだを運びだす前に、
帽子をかぶせ、靴下をはかせなさい」
と彼は言いました。
「みんなにはどんなことを伝えましょうか?」と私は尋ねました。
Oshoはみんなに、
アメリカのノースカ ロライナ州、シャーロットの連邦裁判所
つき拘置所での日々以来、彼のからだは衰弱の一途をたどって
きたこと、オクラホマ州の拘置所ではタリウムの毒を盛られ、
放射線を浴びせられたこと、その事実を私たちが知ったのは、
専門家の鑑定を受けてからのことだったことを伝えるように
と言いました。
「彼らはまったく証拠が残らないようなやりかたで毒を盛ったのだ」
と彼は言いました。
「私のこの不自由なからだは、アメリカ政府内のキリスト教原理
主義者たちの仕業によるものだ」
と彼は言いました。
彼は自分のからだの痛みを外にはあらわさなかったけれども
「この肉体に暮らすのは地獄になってしまった」とも言いました。
彼はふたたび横になって休みました。
私はジャイエッシュのところに行って起こっていることを伝え、
Oshoはあきらかに肉体を離れようとしていると言いました。
私がふたたびOshoから呼ばれたとき
「ジャイエッシュもここにいます」
と言うと、部屋に呼びなさいと彼は言いました。
ベッドに座った私たちふたりに、Oshoは最後の言葉を語りました。
「けっして私のことを過去形で語らないように」
「さいなまされた肉体というこの重荷を下ろしたあと、
私のここでの臨在は、何倍にも増して大きくなるだろう。
『私の仲間たち』に伝えなさい。彼らはより多くを感じるだろうと。
彼らはすぐにわかるだろう」
その途中、私は彼の手を取って泣いてしまいました。
厳しいとも言えるような表情で、彼は私を見つめました
「ノー、ノー」彼は言いました 。
「そうではないだろう」。
私はすぐに泣くのをやめ、彼は美しくはほえみました。
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。
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