OSHOの遺言

 ここに書かれてあるのは、OSHOが肉体を離れる
 最後の瞬間をどのように過ごしたかの一部始終です。

 彼はごく普通に肉体を離れました。

 しかし、最後まで彼の意識は明晰で、その様子は
「まるで、週末どこかに出かけるかのように、
 本当にくつろいでいました。」

 かたや彼の身体は「痛みを誰にも知らせずにいましたが、
 この肉体に生きることは地獄になっていた」のでした。

 OSHOは普通の人ならばとても絶えられないような痛みを、
 顔の表情ひとつ変えずにやり過ごすことのできる人でした。

 どうやら、推測するに、OSHOは身体から離れてその痛みを
 観ていることができるようなのです。

 普通、痛みがある限度を過ぎると、人は意識を失ってしまいます。
 痛みに耐えきれず、気絶してしまうわけです。

 痛みがある限度を超えると意識は身体を離れるんだ、
 ということはちょっと体験したことがあるのでわかります。

 人は死ぬときには無意識になってしまいます。
 それは、ある意味、気絶するようなものです。

 眠りはある意味死に似ていますが、眠りに入るとき、
 人は無意識になってしまいます。

 OSHOから聞いたことで印象的な話があります。
 それは仏陀は眠っているときにも意識があったという話です。

 その話を聴いて、眠っているときにも意識を保っていよう
 ということを実験していたこともありました。

 それはともかく、意識的に死んでいく、
 ということがどんなことなのか。

 そして自分が死ぬときにも意識的に死んでいくことができるのか、
 というのは自分にとってのテーマでもあるので、
 このOshoの最後のシーンはとても印象的です。

 Oshoが、あるとき、麻酔の実験をしたときの話を思い出します。

 麻酔のときにどうなるかの実験をするために、
 Oshoは友人の医師に麻酔をかけてもらうように頼みます。

 麻酔をかけてもらいながら、数を数えるように、と言われて、
 Oshoが数を数えていると、10秒たってもOshoは数を
 数えつづけているので、その麻酔の医師は、麻酔が効いて
 いないのかと疑ったというのです。

 「普通なら1秒ももたないはずなのに」とその医師がいい、
 Oshoは「それならそうと、もっと早く教えてくれ」と言ったという話。

 私は胃カメラを飲むときの麻酔でさえ、
一瞬のうちに気を失って眠ってしまった経験があるので、
麻酔をかけられて10秒も意識を保っていられるなんてすごい、
と思って記憶に残っている話です。

ゆっくり と脈は弱まっていきました。
 ほとんど感じられなくなったとき、

 私は『OSHO、これが最後だと思います』と言いました。

 彼はただ微かにうなずき、最後に目を閉じました。

 普通の臨終のように見えながら、実はそんなに簡単ではないことです。

 こんなふうに、普通に、気軽に、週末どこかに出かけるかのように、
 本当にくつろいで死んでいくなんていうことは、
 普通に見えて、普通にはできないことです。

 マニーシャは書いています。

 「2時間後、アムリットはブッダホールでアナウンスし、
  私たちへのOSHOの最後の言葉を伝えてくれる。 `

  彼はOSHOの最後を、次のように詳細に語る。

  (木曜日の)夜にかけて、OSHOはだんだん弱ってきました。
 身体のあらゆる動きが苦痛をもたらしているのは明らかでした。

 今朝になって、私は彼の脈が弱まり、いくらか乱れているのに気づきました。

 私は彼が死に向いつつあると思う、と彼に言いました。

 彼は肯きました。

 私は心臓専門医を呼んで、心臓蘇生法の準備をしてもよいかと尋ねました。

 彼は「いや、私をこのまま行かせなさい。存在がその時期を決める」と言いました。

 私は彼を支えて浴室へ向かうと、彼はこう言いました。

 「このバスマットの代わりに、ここ全体にカーペットを敷きつめなさい」。

 それから彼は、椅子のあるところまで歩くと言いました。

 彼は座り、部屋にある数点の物をどうするか決めました。

 「これは誰のところにいくべきかね?
 と小さなステレオを指差して尋ねました。

 「これはオーディオだね、ニルパが喜ぶだろうか?」。
 ニルパは長年にわたり、Oshoの部屋の掃除をしてきました。

 それから彼は注意深く部屋を見回し、
 そこにあるひとつひとつについて指示しました。

それらは外に出しなさい
 と、最近うるさい音を出すようになった除湿機を指して言いました。

それから、必ずエアコンディショナーを常に一台作動させておくように
 と彼は続けました。

 それは驚異的でした。とてもシンプルで、淡々と、正確に。
 彼はすべてに目を配りました。

 彼はまるで、週末どこかに出かけるかのように、
 本当にくつろいでいました。

 彼がベッドに座ったので、私はサマーディをどうすべきか尋ねました。

 ーー本来、サマーディとは意識の至高の状態を指すが、
 もうひとつには伝統的に、光明を得た人の遺灰を安置する場所を意味するーー。

 「荘子館のベッドの下に私の遺灰を置きなさい。
 
ーー荘子講堂は、かつて講話が行なわれた場所だが、
 数ヶ月前、Oshoの寝室として作り替えられていたーー。

 そして人々がそこに来て瞑想できるようにしなさい

「この部屋はどうしましょう?」と私は尋ねました。

ここをサマーディにしたほうがよいかね?
 と彼が聞きました。

「いいえ」と私は答えました。「チヤンツーのほうが美しいと思います」

  私が彼の現在の寝室をそのまま残したいと言うと
 「それでは、部屋を整えるように
 と彼は言い、部屋の大理石を張り替えたらいいとも言いました。

「セレブレーションはどうしましょう?」と私は尋ねました。

私の体をブッダホールに運び、十分間ほど置きなさい
 と彼は言い、
 「そしてそれから焼き場 に私を運びなさい。
 そして私の体を運び出すとき、帽子を被せ靴下を履かせるように

  私は彼に、あなたたち全員に何というべきか尋ねました。

 彼は、アメリカのノースカロライナ、シャーロットの
 連邦保安局の独房に入ってから、肉体は悪化の一途を
 辿ってきたと伝えるように
言いました。

 オクラホマの刑務所で、彼らはタリウムという毒を彼に盛り、
 放射線を浴 びせました。これらの事実は、専門家による診断で
 やっとわかったことです。

 彼らは証拠が残らないようなやり方で毒を盛ったと、
 Oshoは言いました。

私の片輪にされた身体は、アメリカ 合衆国政府のキリスト教
 原理主義者たちの仕業だ
」と彼は言いました。

 彼は痛みを誰にも知らせずにいましたが、
 この肉体に生きることは地獄になっていたと言いました。

 彼は横になり、再び休息しました。

 私はジャエッシュ(コミューンの責任者)のところに行き、
 Oshoに起こっていることを話し、
 彼が肉体を離れるのは明白だと告げました。

 Oshoが再び私を呼んだとき、ジャエッシュが来ていると言うと、
 彼はジャエッシュに入るように言いました。

 私たちはベッドに座り、彼は私たちに最後の言葉を言いました。

私のことを決して過去形で語らないように」と彼は言いました。

拷問となった私の肉体という重荷をおろし、ここでの私の存在は
 何倍も大きくなるだろう。
 私の人々にこう言いなさい、
 彼らはそれをもっと感じるだろうとーー
 彼らにはすぐにわかるだろう

 この時点で、私は彼の手を取り、泣き出してしまいました。

 すると彼は、ほとんど断固とした表情で私を見て、
いや、そうではない」と言いました。
それはいけない」。

 私がすぐに泣くのをやめると、彼はただ美しく微笑みました。

  OSHOはそれからジャエッシュに話しかけ、
 今後ワークの発展が、どのように続いてほしいのかについて話しました。

 彼は今肉体を去るけれども、これからもっと多くの人々が
 やって来る だろう、そしてもっと多くの人々が興味を持ち、
 彼のワークは私たちの想像も及ばぬほど広がるだろう
と言いました。

  それから彼はこう言いました。
あなたがたに私の夢を託す

 そして彼は、あまりにも静かに囁いたので、ジャエッシュは耳を
 Oshoに近づけなければなりませんでした。

 そしてOshoは
覚えておきなさい、アナンドが私のメッセンジャーだ
 と言っ て言葉を区切り、それから
いや、アナンドは私のミディアムになるだろう
と言いました。

 この時点でジャエッシュは反対側に移動し、
 Oshoは今度私に向かって
ミディアムが正しい言葉だろうね?
 と尋ねました。

 私はその前の言葉を聞いていなかったので、
 言われている意味がわかりませんでした。

「ミーティング?」と私は聞き返しました。

いいや、アナンドはミディアム、彼女は私のミディアムだ」 `

 彼は静かに横たわり、私が彼の脈をとり、
 私たちふたりは彼とともに座りました。

 ゆっくり と脈は弱まっていきました。
 ほとんど感じられなくなったとき、私は
「Osho、これが最後だと思います」と言いました。

 彼はただ微かにうなずき、最後に目を閉じました。」

和尚との至高の瞬間」By マニーシャ ・ジェームズ

マニーシャ のライフワーク
OSHO サマサティ