前回、マニーシャが悟りを得るという体験について少し紹介しました。
悟りを得るというのは、仏陀の究極の体験でもあり、禅でもひたすら悟りを目指して只管打坐し、公案に取り組み、坐禅の修行に励みます。
瞑想をしている人たちやスピリチュアルに興味のある人たちにとっては、憧れの境地でもあります。
その悟りの一瞥を、マニーシャは偶然のことから体験してしまいます。
そのような体験をした人たちというのは、いろんなバラエティがありますが、多かれ少なかれ、そのような一瞥のような体験は、瞑想していたり、Oshoのもとでいろんなワークショップをしている中で体験したりするものです。
しかし、マニーシャは、マインドが思ったように働かなくなってしまったおかげで、二日たっても前の仕事に戻れず、何か自分が役立たずになってしまったようで、これからいったい自分に何が起こるのか不安に思ってしまいます。
そこでマニーシャはOshoに手紙を書きます。
それに対するOshoの返事は、「仕事をずる能力は戻ってくるだろう、それとともに、より豊かな創造性がやって来るだろう」と書かれてあり、それを読んで安心します。
それから数日のうちに、マニーシャの無心のスペースは徐々に消えていき、思考が戻り、頭脳という競技場で思考サッカーというゲームが再開し始めたのでした。
マニーシャはそのときのことを次のように書いています。
「自分自身を笑わずにはいられなかった。まったく不意に、買ったたわけでもないのに、私はみんなが暝想の中に渇望するものの一瞥を与えられたのだ。
そしてその一瞥の中にいて、何と仕事を失うことを心配していたのだ。
それから、再び完全に機能できるようになり、日々の生活が安定してくると、再び狂気じみてゆく心とともに生きる安心感から、光明を得るという思いと恋に落ちる余裕が生じてくるのだった。」
「和尚との至高の瞬間」より