瞑想というのは、最初はいろいろと努力を要するものです。
しかも、そもそもなぜ瞑想などをしなければならないのかもわからない。
坐るのは苦痛だし、足はしびれるし、頭は雑念でいっぱいになるし。
ふだんは考えてもいないようなことまで、坐るととたんにいろんな考えが思い浮かんできます。
それなのに、どうして瞑想などしようとするのでしょうか?
瞑想をはじめたとたんに頭に浮かぶものごとを観ていると、そういう頭のなかの考えは実はいつも頭を横切っている考えで、ふだんは活動にまぎれて気がつかなかっただけだったことに気づきます。
ただ静かに坐ることでそれらの頭(マインド)に気がつくようになったに過ぎないということがわかってきます。
瞑想を続けているうちに、頭に浮かぶことにも自然に気づいていられるようになり、瞑想が努力なく起こってくるようになる時点がやってきます。
そういう人の話を聞くと、瞑想ってこいう状態になるのかという参考になったりもします。
瞑想って、静かに坐って、ただ気持ちよくなったり、体がなくなったり、拡張感があったり、光に満ちたりということだけでもないし、そうなることだけを目的としているわけでもないように思います。
とはいえ、マニーシャの瞑想体験は、瞑想を長くしている人にとっては「そうそう!」って思い当たることもあるでしょうし、あるいはまだ瞑想の経験がなく、瞑想ってどういうものだろう? って疑問に思う人にとっては、一つの瞑想体験として参考になるでしょう。
マニーシャは彼女自身の瞑想のプロセスを次のように書いています。
「サニヤシンになって数年がたち、多くのことが変わった。
長い間、瞑想は私のためになる修養であり、自分がそれを必要としているのを知っていたが、小さな悟りの体験を除けば、ずっと自分の心との絶え間ない戦いだった。
けれどいま、瞑想は「やらなければならないこと」ではなく、歓びであり、一日の中で楽しみにしているひとときである。
近頃は講話の間じゅう、私の体は微勣だにしない。以前は常にそわそわと落ち着かなかったのに、いまではまるでたいそう楽な肘掛け椅子に座り、ずっとその状態でいることに完璧に満足しているかのようだ。
しかし、この表現は正確とは言えない。
静止して沈黙しているとき、実際、私は肉体をまったく持たないかのように、肉体はただ消える。
そして肉体によって形作られる境界をはるかに超えて、ずっと大きな自分自身を経験する。
私は軽々として光に満ち、極上の織物のように通気性が良くなる。
邪魔になったり、また乱されたりする「私」という存在がないので、何ものもーーどんな音も肉体感覚もーー私を乱すことはない。
ときおり、とても優しく目に見えない手によって引き伸ばされ、体がホールの周囲まで拡張するように感じることもある。
私は大きくなってホールを内包してしまう。
ともに座っている何千人ものサニヤシンたちもまた、私の内側に包み込まれる。
マインド(頭)がいまだに思考で氾濫しがちだが、いまの私には、それらを映画のスクリーンに映っているかのように見つめられる受容性がある。
ときにそれを忘れてしまうこともあり、講話の最中に今度買いたい新しい服のことを夢想している自分に気づいたり、Oshoの言ったことが引き金となって、仕事に生かせるアイディアが浮かんだりすることもある。
けれど、それはたいしたことではない。なぜなら、少なくともいま、私はマインド(頭)が自分から離れたものであり、それに耳を貸すかどうかを選択できると知っているから。」
「和尚との至高の瞬間」より