マインドの恐怖と瞑想との関係

瞑想するということは、常にマインドの恐怖との闘いです。
というのは正確な表現ではありません。

それだと瞑想がマインドと闘っているみたいですが、瞑想はマインドと闘っているわけではありません。

正確には、マインドのほうが瞑想することに抵抗するのです。

瞑想はマインドにとっては死に相当するので(自殺するようなものなので)、マインドとしてはなんとしても瞑想は避けたいので、さまざまなトリックをしかけてきます。

マインドの世界から見る限り、瞑想は時間の無駄、人生の無駄としか見えません。
マインドからすれば、何もせずに坐っているだけって、意味のないことのように思えます。

瞑想をするためには、そういうマインドを理解して、そのトリックを見破る必要があります。

マニーシャはそのことを次のように書いています。

動いていることは、生きることのように見える。
 ただ在ることは、死のように感じられる。

 一見したところ、神経症的な恐れに根ざした、
 非常に奇異な強迫観念と見えるものでも、
 よく見てみれば、根拠のないものではない。

 私が静止するとき、
 自分とかエゴとかマインドの感覚は消えるか死んでしまう。

 しかし、私の人格が死ぬときが、
 もっとも素晴らしい瞬間だ。

マニーシャはここで「私の人格が死ぬときが、もっとも素晴らしい瞬間だ」なんて書いていますが、それはすでに瞑想の世界にいってしまっている人が言うことで、マインドからすれば「それは違うでしょ!」と反論するはずです。

なぜなら、マインドの世界ではいかに人格を形成するか、すばらしい人格者になることこそが人生の目的ですから。
私たちが学校教育で受ける教育は、そのような人格者になることです。

私の人格が死ぬときが、もっとも素晴らしい瞬間だ」なんて、マインドからすれば「あほちゃうか?なにゆうてんねん!」ということになります。マインドには理解できないことです。  

人格(パーソナリティ)という言葉は、仮面(ペルソナ)を語源としています。
つまり本当の自分は隠して、表面的な仮面をつけることが人格であり、いかにすばらしい仮面をつけるかが人格形成で求められることです。

世間で生きていくためにはこれは大切なことであり、マインドはそのためには必要です。

しかし瞑想は本当のあなたを見つけることに関心があって、表面的な人格には関心がありません。

そうすると、瞑想すると人格が崩壊するのかというと、そういうことでもありません。
むしろ、お釈迦さんは瞑想をして、素晴らしい人間になりました。
つまり瞑想によって、本来のすばらしい人間性が輝くことになります。

しかし瞑想すると、あるいはその瞑想の過程では、表面につけていた偽の人格(仮面)がはがれることになります。

ですからそれまで世間にあわせて本来の自分ではないことを一生懸命していたりすると、そういう人格が崩壊してしまうということが起こったりすることがあります。
マインドにとっては、それは怖いことです。

ですから、瞑想するにはマインドについて理解しておくことが大切です。

マインドは世間で生活していくにはなくてはならない大切なものですが、こと瞑想に関しては、マインドは不要なものになります。
それが、禅でいうところの「無心」です。
無心は英語では「ノーマインド」、マインド(頭、思考)がない状態をいいます。

ですから、そのようなマインドのことを理解した上で、瞑想は瞑想として続ける必要があります。

マニーシャはそのマインドについて次のように語ります。

恐怖とは私のマインドの恐怖であり、経験して知ることとは何の関係もない。 
 心(マインド)は、沈黙の中で自分が必要とされなくなるのを恐れている。
 それは正しい。
 そしてすべての労働者と同様に、自分がいなくても済むと考えることは、
 心(マインド)にとって我慢がならない。
 仕事を失ったり、厄介者扱いされたくないのだ。

 瞑想によって、その座を追われるのではないかという心(マインド)の恐れにもかかわらず、
 私は実験を続け、もうひとつのトリックを試す。

――前に一度、Oshoが話してくれた方法だった。

毎晩眠りにつく前に
「観照」という言葉を何度となく繰り返しながら、
観照のスペースを思い起こす。
そうすれば眠りに落ちるとき、
観照がその日の最後の言葉となり、
最後のスペースとなる。

観照のスペースが、
少しずつ眠りの時間に浸透していくのが、
はっきりと感じられる。

そして目覚めたときも――
それが朝でも、夜中でも――
その沈黙と無心のスペースは消えない。
そしてそれは、夢に影響を与え始める。


私がOshoから聞いたことのうちで、好きな話に、
眠るときの最後の思考は、
眠っているあいだもそのまま継続して、
あなたが目覚めたときの最初の思考は、
眠る直前の思考と同じだ
」という意味の話があります。

だから、眠るときに瞑想しなさい。
そうすると眠ってるあいだ瞑想していることになるから、というものです。

生来が怠け者なので、この話を聞いたときにはすぐ実行したのはいうまでもありません。

でもやりすぎると弊害があって、瞑想すると眠ってしまうというクセがついてしまうことにもなるので、気をつけてください。

それはともかく、ここでマニーシャが仕掛けたトリックというのは、
このOshoの言葉をベースにしていると思われます。

眠っているときには、意識的なマインドのトリックはなくなるので、とてもおすすめのやりかたです。

ただ一つ覚えておく必要があります。
「毎晩眠りにつく前に「観照」という言葉を何度となく繰り返しながら、観照のスペースを思い起こす」ことです。

マインドは、そのことを忘れるようにトリックをしかけますので、覚えていられるかどうかが勝負です。

マニーシャは書いています。

毎晩眠りにつく前に
「観照」という言葉を何度となく繰り返しながら、
 観照のスペースを思い起こす。
 そうすれば眠りに落ちるとき、
 観照がその日の最後の言葉となり、
 最後のスペースとなる。

 観照のスペースが、
 少しずつ眠りの時間に浸透していくのが、
 はっきりと感じられる。

そして目覚めたときも――
それが朝でも、夜中でも――
その沈黙と無心のスペースは消えない。そ
してそれは、夢に影響を与え始める。

どういうふうに夢に影響を与えたかは、長くなってしまうのでここには引用できませんので本で読んでくださいね。
その夢は彼女にとってとても深遠な夢だったようです。

マニーシャはその夢の印象について次のように書いています。

この夢の中で、
 私は自分の無意識にある神秘の領域に直接入っていった、
 それまで決して入っていけなかった、
 自分自身のある部分との間に橋がかけられたと感じ、
 涙が止まらなかった。

「伝達」という言葉が浮かんだ。

 それはまさに、そんなふうに感じられる。
 あたかも今晩、
 内なる自己が私に何かを伝達したかのようだ。
 この記憶は、これからもずっと私の中に残るだろう。

和尚との至高の瞬間