私たちは条件付けのなかに生きています。
あらゆる状況が私たちに取っての条件付けの機会です。
「目覚める」というのは、そのような無意識の中にある条件付けに気づいて、それらの条件付けから自由になることも含みます。
導師(マスター)の仕事が私たちを目覚めさせることであるということは、私たちをそれらの条件付けや思い込みに気づかせることです。
信念を持つということは、一般にはよいことだとされています。
「信念をもちなさい」というふうに家庭や学校では教わりますし、目標やものごとが達成できないのは信念が足りないからで、信念を持てばなんでもできる、というふうに教えられます。
また両親の行動を見ていていたり、そのしつけや学校での体験などから、自然と自分なりの信念を形成しています。
例えば学校の成績が良ければ、あなたはできるね、頭がいいねというふうに言われ、自分は頭がいいんだという信念を持つでしょうし、その逆もしかりで、学校の成績が悪ければ、頭が悪いと言われ、自分はできないんだという信念を持ってしまいます。
いじめにあえば、まわりの人たちは敵だというような信念を持つかもしれません。
さらに学校や宗教では、どのように信念を持つか、どのような信念を持つべきかということが教育されます。
しかし、それらの信念は一種の条件付けや思い込みであって、それが社会やその個人にとってよい方向に働けばいいですが、悪い方向に働けば、単なる妄信になってしまいます。
自爆テロや戦争などは、そういう宗教的信念や自分だけが正しいという信念によってなされています。
ですからその信念が肯定的なものであろうと否定的なものであろうと、どのような信念をもって生きているかということに気づくことは目覚めるためには大切な要素になってきます。
なぜ信念に気づくことが目覚めるためにそれほど大切になってくるかというと、信念を持っている限り、盲点をもつことになり、信念以外のものが見えなくなってしまうからです。
盲点があるということは、目隠しをして歩くようなものです。あるいは馬がよそ見をしないように脇見防止の目隠しをしたり、目の前に人参をぶら下げて、それしか見えなくなるようにしてしまうのと同じです。
人間の脳というのは、とてもエネルギーを消費するところで、フルに脳が働くと、小さな発電所1個分ほどの電力を消費するそうで、そうなれば餓死してしまうほどのものだそうです。
ですから、脳はエネルギーをできるだけ節約するために、すでに見たものや経験したことについては、過去の記憶をもとにものごとを見ているようです。
ですから信念や条件付けができてしまえば、それ以外のものが見えなくなってしまいます。それ以外のものの見方ができなくなってしまうのです。
Oshoはすでに条件付けされた人たちに働けかけなければなりませんから、最初は既存の宗教の開祖についてとても肯定的なことを語りました。
Oshoが仏陀のことを語るときには、まさに仏陀がOshoとなってよみがえったかのようでした。
仏陀が今の世に生まれていたら、まさにOshoが語るように話しただろうと思われました。
たいていは学者や禅僧が仏陀について話すときには、仏陀の話したことについて評釈したり解説するのがつねですが、Oshoが語るときには、まさに仏陀が目の前にいて語るかのようでした。
イエスについてもしかり、老子であれ、荘子であれ、マハヴィーラであれ、Oshoはまさに彼らと同じ境地をもって語りました。
Oshoに言わせれば、仏陀であれ、キリストであれ、同じ境地に達していれば、同じように話せるのだそうです。
そしてそれらの信者(それらの宗教についての信念を持っている人たち)を十分引きつけたと見るや、こんどはそれらの開祖についても容赦なく批判し、めった切りにします。
そうすると、それらの宗教や開祖について妄信していた人、固執している人たちはOshoから離れていくことになります。
もしそれらの開祖や宗教について崇拝していたり、信じている人に取ってはOshoの語ることは無礼千万で、侮辱されたと感じても当然だと思われるようなことを語るのです。
例えば、イエスについても、彼は光明を得てさえいなかったし、事実イエスは「単なる精神病患者で誇大妄想狂だ」とさえ言うのです。
またOshoはイエスのセクシュアリティーについても、疑問を投げかけ、イエスがゲイでないというなら、なぜ12人の男たちと連れ立っていたのか? そして哀れな処女(マリアのこと)を妊娠させた者を、なぜ「聖霊」などと呼ぶのかと疑問を投げかけたりするのです。
そんな侮辱的とも受け取れることを言えば、キリスト教原理主義の国から追放され、毒殺されても不思議ではありません。
なぜOshoはそこまでの危険を冒して、そのようなことを語ったのでしょうか?
マニーシャは書いています。
「導師(マスター)の仕事とは、ひとりひとりの弟子の秘められた可能性を見て取り、それに弟子自身が気づくように、また弟子が本物の自分と、それを覆い隠す作られたものとの違いを認識するように手を貸すことだ。
真の導師の仕事は、より強力で肯定的な信念体系や、為すべきことと為さざるべきことといった行動指針を与えるのではなく、弟子が思い込みや条件づけのプログラムを切り離すのを助けることだ。
そうなれば彼らは、思い込みという目隠しに妨げられることなく、持って生まれたユニークさに従う生き方ができる。
プーナコミューンの初期、西洋人たちが初めてOshoのことを聞きつけ、インドに引き寄せられた頃、彼は数回の講話の中でイエスについて語った。
聖トマスによる福音書や、そのほかの聖書に関するコメットに、私は目を開かれる思いだった。
教会に通い、キリスト教系の学校教育を受けた私が抱いていたイエス像よりずっとリアルで、知性的で、愛さずにはいられないようなイエスをOshoは語ってくれた。
しかし後になってOshoは、イエス、仏陀、マハヴィーラ、といった既存の宗教の開祖について語ったのは、その信者たちを引きつける方便にすぎなかったと言う。
私たちを引きつけると、彼はイエスや仏陀やマハヴィーラを落とし、彼自身のヴィジョンを語り始めた。
この突然の切り替えに、誰もがついていけたわけではない。
かつての講話シリーズでは、イエスは反逆者であり、己の真実に命を捧げた者として語られた。
しかしその次に新しく語られたイエスは、楽しむ術を知っている人間だ。ただOshoは、キリスト教にあくまでも固執する人の心を挑発するために、イエスについて軽やかに魅力的に、長時間にわたって語った。
これは方便の第二部だった。
誰のことをどう語ろうがOshoの許に留まる人と、彼の語るイエスゆえにその許に留まっている人を、彼は選り分けたかったのだ。」