人々が真実について語り
それでも偽りの世界にとどまる
理由は明らかだ
彼らのハートには確かに真実への願望がある
人は自分の姿を目の前にして
自分が真実でないことを恥じている
だから真実について語る
だが、それはただの「おはなし」ーーだ
真実にもとづいて生きることは
あまりにも危険だ
そのような危険を冒すことはできない
自由についても同じことが言える
話のうえでは、誰もが自由を望んでいる
だが実際に自由な人はひとりもいない
そして誰ひとり真に自由になることを望んでいる人もいない
自由は責任をもたらすからだ
自由はそれだけではやって来ない
また、依存することはたやすい
責任はあなたにではなく
あなたが依存している人にあるからだ
そこで、人々は分裂症的な
生き方をつくり出した
真実について語り、自由について語る
そして偽りのなかで生き、
隷属状態に甘んじる
一 あらゆる種類の隷属に一
ひとつひとつの隷属が何らかの責任を
回避させるからだ
真に自由を求める者は
途方もない責任を受け容れなければならない
自らの責任をほかの誰に押しつける
こともできない
何をするにしても、どうなろうとも
自分の責任だ
人はみな自由を求めているように思えます。
そのための革命の歴史が世界の歴史でもありました。
奴隷制からの解放、身分制からの解放、男女の平等を実現しようと戦ってきました。
その結果、近代国家では、その自由と平等は憲法によって保障されています。
しかし、実際にその自由を生きるというのは話が別です。
なぜなら、制度上の自由は保障されていても、その保証された自由を実際に行使するのは個人だからです。
個人が実際にその自由を生きるにはリスクを冒す必要があります。
そのリスクとは、責任を負うということです。
誰も自分の人生の状況が自分の責任だとは思いたくはありません。
もし自分の責任だとすれば、自分でなんとかしなければならなくなります。
しかし、誰かのせいにしていれば、自分で何かをする必要がなくなります。
その方が楽だし、誰かに依存し、隷属している方が楽なのです。
自分の今の人生がこうなっているのは、
社会や会社のせいだし、両親のせいであったり、
上司や教師のせいだったり、妻や旦那のせいだし、子供のせいだと、
不平を言っている方が楽です。
そのように、いつも誰かのせいにしたり、不平を言いながら過ごしていないでしょうか?
先週、先々週に「ハートからのカウンセリング」を教えているラハシャ博士による「愛と自由」「愛と関係性」についてのワークショップがありました。
「愛と自由」では、自由がなければ愛はなく、愛と自由はすでに自分の内側にある、ということを体験として学びました。
普通、愛しあっているカップルは、お互いがお互いを束縛しあう関係にってしまいがちです。
お互いがお互いを所有し、依存しあう関係になりがちです。
「愛は惜しみなく奪う」という有島武郎の作品がありますが、奪い合う愛は本当の愛なのでしょうか?
愛が奪い合うものになるのは、愛を外側(相手)に求めていることから生じます。
それはある意味、子供時代には両親に依存し、両親から愛をもらうことの体験から人生が始まっていることから考えると、そうなってしまうのは、やむを得ないことかもしれません。
他の愛を知らないわけですから。
しかし、外側からの愛を求めている限り、そこには相手への依存が生じますし、相手の愛を自分のものにするために相手を束縛することにもなってしまいます。
それは、その外側(相手)からの愛を手にしなければ生きていけなくなるという、生きていくため(サバイバル)の恐怖にもとづいているともいえます。
子供時代には確かに、周りからの愛、両親からの愛に依存しなければいけなかったので、その恐怖には理由がありました。生きていくためには、そうする必要がありました。
しかし、大人になれば、自分で自立して生きていけるので、その愛を両親や周りに依存する必要があなくなります。
逆に、相手に依存したり、相手を束縛することは愛ではありません。
愛は自由をもたらすものであり、自由がなければ本当に愛することもできません。
そして愛するためには、まず自分の中に愛がなければなりません。
自分の中に愛がなければ、愛することはできないからです。
そのためには、自分の中に愛の源泉を見いださなければなりません。
自分の中に愛がない限り、本当には愛することはできないでしょう。
自分の内側に愛の源を見いだしたときに、
愛は分かち合うものとなり、自由のなかで愛することが可能になってきます。
そして「愛と関係性」のワークショップでは、すべての関係性は自分の鏡であることを学びました。
人は外側からの評価や期待、他人の目を気にして人生を生きています。
社会から疎外されてしまうと生きていくことはできないという恐怖があるからです。
自分が思うように、自由に生きると、社会から疎外されてしまうのではないかという恐怖があるので、自分が本当に思うように生きることができなくなってしまうのです。
とりわけ日本のような農耕社会では、村八分にされてしまうと生きていけなくなるので、仲間はずれにされないように、周りに同調して生きなければならないという条件付けがありました。
それは反面、楽な面もありました。
人からの期待や意見に従って生きている限り、安全だし、その責任を相手になすりつけることができました。
しかしそれでは、本当に望む自分の人生ではなくなってしまいます。
関係性においても同じです。
相手が悪いというように、相手のせいにしている限り、自分の責任で解決することができなくなり、そこには本当の解決策はなく、争いの種は尽きません。
「関係性はすべて自分の鏡だ」ということに気づいたときに、その状況について自分で責任を持つころができるようになります。
そのように考えると、自分が幸せになるのもならないのも、すべては自分の責任になります。
「愛と関係性」のなかでラハシャが分かち合ってくれたジェフ・フォスターの次のような詩があります。
「誰もあなたを幸せにすることはできない。
誰もあなたを不幸にすることはできない。
むしろ、あなたはいつも招待されている。
自分自身の中で、
まだ出会わないままでいるものに会うように。
決して触れたくなかったものに触れるように。
自分自身の生き生きとした大いなるフィールドを探求するように、と。
自分がどう感じるかを人のせいにすることは、全ての暴力の始まりだ。
それが内側のものであれ、外側のものであれ。
人間同士の全ての葛藤も、
そして究極的には国と国とのすべての戦争も。
相手を束縛から放ち、
今まさにあなたの中に生きいきとしているものを尊重する。
愛する子供を抱くように、
自分自身のフィーリングを抱きしめることを学ぶのだ。
それが注意をひくために、
どれほど強烈に燃えるように叫んだとしても。
あなたの孤独の中にある生を
あなたの失望のなかにある震えを、
悲しみのなかにある電気的感覚を、祝おう。
あなたの怒りの中にあるパワーの前にひざまずき、
あなたの恐れの中にある燃えるような創造性を尊ぶ。
この深く受け入れることから、あなたは弱くなることはなく、
受身になることもない。
むしろその反対だ。
これから、あなたは非暴力であることから世界に入るのだ。
そこからは、はかり知れないクリエイティブなパワーがそこにあり、
あなたは深く聴き、正直に対話し、予期しない変化の可能性に開いている。
あなたは完全だ
あなた以外に誰もそれを与えられる者はいないし、
誰もそれを取り去ることもできない。
幸せを探さないように
幸せでありなさい。
幸せがあなたのまさにエッセンスだと知りなさい。
ジェフ・フォスター
ここで彼は、
「自分がどう感じるかを人のせいにすることは、全ての暴力の始まりだ。」
と言っています。
自分がどう感じるかということも自分の自由であって、自分の責任なのです。
クリシュナムルティは「あなたが世界だ」というふうに言っていますが、まずは自分の世界に責任をもつことからしか、ものごとははじまらないようです。
「自らの責任をほかの誰に
押しつけることもできない
何をするにしても、
どうなろうとも自分の責任だ」
Osho
つい人のせいにしたくなったときには、この言葉を思い出したいと思います。