褒められることを求めてはいけない

受け容れられ、認められることは
誰もが求めていることだ

私たちの人生におけるすべての仕組みは
認められなければ取るに足りない存在であり
価値がないと教えられることで成り立っている

仕事が重要なのではなく
認められることに意味があるというわけだ

だが、それはまったく正反対だ
私たちの仕事が重要であるべきだ
仕事そのものが喜びであるべきだ

仕事をするのは自分が認められる
ためではなく

自分が創造的になることを楽しむ
ためであるべきだ

仕事そのもののために仕事を愛する
あなたは仕事を愛するから仕事をする
認められることを求めてはならない

認められたとしても軽く受け流しなさい
認められないとしても思い悩むことはない
あなたの満足は仕事そのものにあるべきだ

ゴールド•ナゲッツ

山本五十六の有名な言葉に
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」
という言葉があります。

教育をするのにも、その人のことを認めて、褒めるということが大切だ
というふうによく言われます。

でも、果たしてそうなんでしょうか?

何かの本で読んだことがありますが、
褒美を与えることが子供の学習効果にどのような影響を与えるかということについてのある実験があります。

その結論として興味深かったのは、褒美は与えない方がいい、ということらしいのです。

というのは、例えば、子供が本を読むのが好きで、本を読んでいたとします。

そこで、その本を読むのが好きな子供のグループを二つに分けて、ひとつのグループには、その子供たちが本を読んだときに、ご褒美を与えるようにします。

すると、その子供たちはだんだんと本を読むという楽しみのためよりも、褒美をもらうために本を読むようになるというのです。

褒美というのは、褒めることであってもいいし、お菓子をあげることであってもいいわけです。

そうすると、今度は褒美がないと本を読まなくなったというのです。

でも褒美をあげなかったグループは、相変わらず本を読むことの楽しみのために本を読み続けたというのです。

つまり子供に褒美をあげるようになったがために、子供から本を読む楽しみを奪ってしまったことになります。

このOshoの言葉を読んでそのことが思い出されました。

しかし、褒められたことがうれしくて、今までそれほど好きでもなかったことが好きになるようなこともあるので、褒めたり評価したりすることが一概には悪いとは言えないと思います。

しかし、好きでもないのにただ認められたいがために、褒めてもらいたいがためにそのことをやるとしたら辛いものになってしまいます。

私は小学校3年の夏休みに浜寺公園にあった大きな遊戯プールで、母親が平泳ぎで泳ぐのを見よう見まねでついて泳ぐことで平泳ぎを覚え、泳ぐのが好きになりました。

おそらく、泳げたことで自分もうれしかったし、母親にも褒めてもらったのかもしれません。

海のそばで育ったこともあって、海で泳いで遊ぶのが好きでした。

小学校5年のときに、たまたま25メートルの学校大会で平泳ぎのタイムが良かったので学校代表に選ばれて、それからは50メートルの競泳の大会出場のための特訓になってしまったのですが、その結果、全国大会ではあまりいい成績が出せず、がっかりしたのを覚えています。

好きだった水泳が、特訓でつらい水泳に変わり、その結果がっかりしたという経験をしたわけです。

幸い、海で潜るのが好きだったので、水泳は今でも好きですが、下手をすると、そのままがっかりして、水泳が嫌いになってもおかしくなかったわけです。

自分が何かをするとき、仕事をするときでも、それが何のためにしているのか、ということを問うのは意味のあることです。

その仕事が、単に給料のためであったり、昇進のためであったり、世間体のためであったりすると、それは認められるという仕組みの中で仕事をしていることになります。

すると給料が良くなかったり、昇進できなかったりすると、自分の価値が認められないということになって、がっかりした人生になってしまいます。

でも、その仕事が好きであったり、仕事をすることで自分の創造性が発揮できたり、人が喜んでくれれば、仕事することそのものが喜びになります。

このOshoの言葉は、

自分は何のために仕事をしているのか?

仕事をする上で、自分にとって何が大切かを考えさせてくれる言葉です。