人はみなユニークであり
独自の個人性を持っている
というのは明白な事実だ
私たちは、人はこうあるべきだという
考えを放棄すべきだ
それは「人はどうあっても美しい」
という原理に置き換えられるべ きだ
「こうあるべきだ」などというのは問題外だ
なぜならいったい誰が
「こうあるべきだ」などと押しつける?
存在はあなたをあるがままに受け容れている
というのにそうしないのは、
いったい誰だろう?
だから、その態度を変えるだけでいい
ひとたび理解すれば、それはたやすいことだ
人はみなユニークだ
人はみなあるがままだ
また、あるがままであるべきだ
認められるために、ほかの誰かになる
必要はない
人はすでに認められている
それを私は個人性への敬意―ー
あるがままであることへの敬意と呼ぶ
私たちが人々をあるがままに受け容れる
ことができるなら
全人類は大いに愛に満ち、
喜びに溢れた場になるだろう
人はみなユニークであり
独自の個人性を持っている
というのは明白な事実だ
とOshoは言っていますが、これってほんとうでしょうか?
日本人にとっては、この事実は明白ではないように思われます。
「出る杭は打たれる」
ということわざがあるように、日本の社会では、できるだけ
目立たないように、みんなと一緒にしていることが無難な選択でした。
「和をもって尊しとなす」
というのは聖徳太子の言葉です。
しかし、だから日本は昔から調和を重んじて
いたのだ、と解釈するのは短絡的です。
聖徳太子が治世に当たってこのようにいわなければならなかったのは、そのバックグラウンドとしては、当時は日本には「和」がなかったと考えるのが自然です。
というのは、彼が政治に関与したのは推古天皇の時代で、ヤマト王権がほぼ日本を統一して朝廷となり「倭」の国から「日本」へ変わっていく時代です。
それはちょうど日本統一が成し遂げられて、日本として出発しはじめた時代です。
日本の地にいた先住民族や渡来人だけでなく、まだ大和民族が出来ていなかった時代に、民族合併、民族和合を図るための言葉だと考えられます。
ただ、ここに聖徳太子のすぐれた考え方があって、他の侵略国、特にヨーロッパ諸国やアメリカなどの勝者が被支配者を支配するという考えとは違っています。
ヨーロッパ諸国の植民地の歴史をみると、植民地になった人々は殺戮され、搾取され、過酷な状況におかれました。
イギリスの植民地となり搾取されたアジアの国々、アメリカに支配されたアメリカインディアンの人たち。
日本はどちらかというと、滅ぼすというよりも合併、和合を図るという考えが根底にはあるようです。
話が脇道にそれましたが、聖徳太子の本意はともかく、「和をもって尊しとなす」という精神で調和が重んじられる日本の社会では、みんなが平等であるべきだという考えがあるようです。
小学校などの運動会のかけっこで、みんなが手をつないでゴールした、という記事を読んでびっくり仰天したことがあります。
海外では飛び級はあたりまえで、才能あるものはどんどんその才能を発揮し、その個性を発揮する教育がなされていますが、日本はその真逆の社会のようです。
そういう横並びの社会のなかでは、社会のルールや規則が重んじられ、人の目や思惑を気にしながら生きていたりするので、自分がどうしたいということよりも、自分はどうすべきなのかということのしつけが行き届いています。
何ごとにも二面性があります。だからこそ日本は平和で、清潔で、安全で、社会の秩序が保たれ、世界でももっとも安全で住みやすい国にもなっています。
反面、人はみなユニークであり、独自の個性を持っているということが見逃されがちな国民性をもっているようです。
だからこそ、
人はみなユニークであり
独自の個人性を持っている
というのは明白な事実だ
という事実を認識することは意味があると思われます。
先週末、ユニティインスティチュート
では第三チャクラーー真の自己を生きるーーということがテーマのワークショップが行なわれました。
人はそれぞれユニークであり、独自の個性をもっているということのエネルギーは第三チャクラにあります。
それぞれの遺伝子がユニークで個性をもっているのが明白な事実であるのと同じように、この第三チャクラのエネルギーはそれぞれがユニークで個性をもっています。
この第三チャクラのエネルギーは、個性、勇気、決意すること、リーダーシップ、目標を定めたり、フォーカスすること、決断力や自立すること、達成するなどの質をもっています。
これらのチャクラについての詳しくい解説は「サトルボディヒーリング」を読んでみてください。
第3チャクラについて学ぶためのラハシャ博士によるオンラインコースもあります。
このような自分の第3チャクラのエネルギーに気づいていくことが、自分のユニークな個性を生きることにつながります。
その自分の中のエネルギーに気づいて、そのエネルギーを受け入れるということが大切です。
そのためには、人はこうあるべきだという考えを放棄して、自分がすでにもっているあるがままのエネルギーを認め、そのエネルギーを生きるということだけでよいのです。
だから、その態度を変えるだけでいい
ひとたび理解すれば、それはたやすいことだ
人はみなユニークだ
人はみなあるがままだ
また、あるがままであるべきだ
そのエネルギーはすでに自分の内側にあるものなのですから。
そうしたときに、その人自身の美しさが輝いてきます。
「人はどうあっても美しい」
あるがままに生きるということは、ひとそれぞれの自分の中にあるユニークなエネルギーを受容して生きるということです。
そうしたときには、それぞれの個性が輝き、愛と喜びに満ち、ひいては全人類は大いに愛に満ち、喜びに溢れた場になるでしょう。