愛から、知性から、寛大さから生まれるのが真の共産主義だ
強制から生まれる共産主義は贋物になる
そして、どれほど貧しくても
世界に何ひとつ貢献できない人はひとりもいない
これまで歴史上存在してきている共産主義国家は、
すべて例外なく、専制政治であり、
強制から生まれた共産主義でした。
その構造は今の共産主義も変わりません。
ここでOshoが「真の共産主義」と言っているのは、その共産主義とはまったく異なっています。
愛から、知性から、寛大さから生まれる共産主義とは、どのような共産主義なのでしょうか?
そもそも、愛や知性や寛大さは誰の愛や知性や寛大さなのでしょうか?
それは個人のものであって、国家のものではありません。
しかも、それらの愛や知性や寛大さは、個人の内なる層の「本質」に属するものです。
これらの本質は個人の「本質」であるとともに、人間であれば誰しもが持っているものです。
マインドの知性はそれぞれの頭脳の産物なので、個性的です。
しかしこの「意識の多重構造マップ」では、内側にいけばいくほどバイブレーションは繊細になり、中心ではすべてがひとつです。
「無」には個性はありませんし「空」にも個性はありません。そこではすべてがひとつの世界です。
ひとつの「無」、ひとつの「空」を共有しています。
その中心のごく近くに位置している「本質」は中心に近く、その本質は誰もが共通して持っている要素、ある意味共有しているスピリチュアリティの本質です。
この「本質」に属する知性はマインドの知性とは異なり、直感的知性とでもいうもので、「空」や「無」のどこからともない空間からやってくるように思われます。
このように、内面の中心の領域にある「本質」の愛、知性、寛大さは内面から溢れ出るものであって、強制されてのものではありません。
それは内なる豊かさから溢れ出るものであって、分かち合うものです。
その豊かさは経済的なものの多寡にかかわらず、内なる本質から貢献し、共有できるものです。
もしそれらが個人のものであって、共有できないなら、それは資本主義に近くなります。
資本主義とは、マルクスの資本論では、生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式として定義されています。
つまり資本主義の経済の仕組みは、資本の運動が社会の基本原理となって、利潤や余剰価値を生む体制です。
スピリチュアル資本主義というのがもしあるとすれば、愛や知性や寛大さを生みだす生産手段を一部の個人(資本家)が所有していて、一般大衆が愛や知性や寛大さを資本家にもたらす体勢ということになってしまいます。
堺屋太一の「知価革命」という本で有名になりましたが、現代社会は工業化社会から知価社会、つまり鉄などの工業製品よりも、ブランドなどの知恵や情報に値打ちが出る時代というふうになっています。
ある意味、情報や知識がお金に代わって価値をもつようになった結果、お金を資本とするよりも、知識や情報が資本となりつつあります。
そういう意味では、資本とは知識や知性であったりします。
これが外なる層のマインドの知識や知性からのものであれば、その知識を使って、他の人たちを搾取するために使うこともできます。
しかし、それが内なる本質からの知性や愛や寛大さであれば、これらを独占所有することはできません。
それらは分かち合うことしかできない性質のものだからです。
つまり、自分の内なる本質につながることは、自分の内なる愛や知性や寛大さとつながって自分を豊かにし、世界に貢献するようになっていきます。