マインドを超える

マインドは評価しないではいられない
評価しないように強制すれば 知性に障害が起こる
そうなるとマインドはうまく機能できない

評価しないことはマインドの領域に属することではない
マインドを超えた者だけが評価しないでいられる

マインドを超えないかぎり
事実と思えること、正当な言い分などは
ただの見せかけにすぎない

マインドが決定し宣言することは
すべてその条件付けや先入観に汚染されている
それがマインドに評価をさせる

たとえば、泥棒がいたとする
泥棒が盗みをしていることは事実だ──
それに疑間の余地はない─

そこで、あなたは泥棒に対して断言する
確かに盗みは良いことではない
だから、ある人を泥棒と呼ぶときマインドは言う
「君は正しい 君の言明は正当だ」

だが、なぜ泥棒は悪いのだろう?
悪いこととは何だろう?
なぜ、彼は盗む羽目になったのだろうか?

盗みはひとつの行為にすぎない──
ひとつの行為にづいて
あなたはその人物全体に評価を下そうとしている

あなたはその人を泥棒と呼ぶ
その人は盗みばかりでなく、
ほかにも多くのことをする

素晴らしい画家
素晴 らしい大工
素晴らしい歌手
素晴らしいダンサーかもしれない──

その人の内側には千とひとつの資質が隠されているかもしれない
その人全体は途方もなく大きい
そして盗みはひとつの行為にすぎない

たったひとつの行為に基づいて
その人全体に判断を下すことはできない

あなたはその人をまったく知らない
また、どのような状況でその行為が起こったのかも知らない

このような状況では
あなたも同じように盗みを働いたかもしれない

そのような状況では
盗みは悪いことではないかもしれない……
なぜなら、すべての行為は状況と密接な関係があるからだ

世間を見わたせば
さまざまな人々の条件付け
正邪や善悪といった概念に気づかされる

そのとき初めて
自分のマインドもまた
人類のある一部分でしかないことがわかる

それはいかなる真実も代表していない
たんに人類の特定の一部分を代表しているにすぎない
このマインドを通して
あなたが見るものはすべて評価されている

ゴールド•ナゲッツ

私が長年理解できなかったOSHOの瞑想を表す言葉のひとつに、”Choiceless awareness” という言葉がありました。

日本語に訳せば「選択なき 気づき」。

気づいているだけで、選択しないって、どういうことなんだろう?

それが悪いことだってわかっていても、それさえも選択しないということなのだろうか?

そこで自分なりに解釈していて思い当たったことは、「塞翁が馬」の故事です。

「人間万事、塞翁が馬」というふうによく使われます。

「禍福は糾える縄の如し」ということも同じようなことです。

つまり、幸福と不幸は表裏一体。

何がいいか悪いか、何が幸せかどうかは最後までわからないよ、っていう意味です。

「人間万事、塞翁が馬」というのは、次のようなはなしです。

昔、中国の塞というところに老人(翁)が住んでいて、塞翁と呼ばれていました。

ある日、その塞翁が飼っていた駿馬が逃げ出しました。

そこで村人たちがなぐさめにいくと、塞翁は「いや、このれは福になるかもわからないよ」と言いました。

そんなことはないだろうと思っていると、なんと数ヶ月後にその馬が野生の駿馬をいっぱい連れて戻ってきました。

すると村人たちが、ラッキーだねーってお祝いにいくと、塞翁は「いや、これが災いになるかもしれないよ」と言いました。

せっかくお祝いに行ったのにへそ曲がりなじいさんだなと思っていると、塞翁の息子が馬に乗っているときに落馬して足の骨を折ってしまいました。

村人たちがお見舞いに行くと、塞翁は「いや、これは幸いなことかもしれないよ」って言いました。

するとしばらくして、村の国境で戦争が起こり、村の青年たちが戦役にかり出され、足の骨を折っていた塞翁の息子は戦争に行かずにすみました。

戦争には勝てたものの、戦争に駆り出された村人たちの青年の多くは戦争で命を落としました。

というおはなしです。

しかし、今回OSHOが語っていることは、また違う観点で「選択なき 気づき」についての理解をもたらしてくれます。

マインドそのものが評価し、選択し、決定する機能を持っている、とOSHOは語っています。

しかもそのマインドはすべてその条件付けや先入観に汚染されている

従って、マインドの評価や選択は、条件付けされ、先入観に基づくものであって、部分的な判断しかできない。

つまり、マインドはさまざまな人々の条件付け正邪や善悪といった概念に基づく評価しかできない宿命があり、人類のある一部分の評価にしか過ぎず、それはいかなる真実も代表していない

つまり、マインドによっては真実をみいだすことはできない、ということです。

このマインドを通して
あなたが見るものはすべて評価されている

そのマインドに気づいていなさい。

そのマインドを超えた気づきこそが「選択なき 気づき」だということです。

そこでの問題は、ではどのようにすれば、そのマインドを超えた気づきが得られるのか? ということになります。

そのヒントのひとつが「ハート瞑想」です。

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