執着と愛はひとつだという考えを捨てなさい
ふたつは敵同士だ
すべての愛を破壊 してしまうのが執着だ
執着を育めば、執着を養えば、愛は破壊される
愛を育み、養えば、執着はおのずと消えてゆく
愛と執着はひとつではない
ふたつは別の存在であり
互いに相容れないものだ
「愛着」という言葉があるように、愛するものに執着するのは当然のことのように思いがちです。
執着いうのはものごとに固執し、とらわれることを意味して、仏教では修行の障害になるとされています。
煩悩の用語としてのrāga(愛)あるいはlobha(貪)に近い、とされています。
サンスクリット原語は、abhinivezaの他に、sakti、āsakti(没頭する事)、parigraha(摂取、所有)など良い意味でも使われる語が同時に執着の意味を持ち、grāha(にぎる、理解)、adhyavasāya(決知、判断)など認識にも関わる語が執着の意味で用いられています。
キリスト教では愛(アガペー)というふうにいっていますが、仏教では愛ではなく慈悲という言葉を使っています。(ウィキペディアより)
恋に落ちてしまうと、寝ても覚めてもその人のことばかり没頭していて、ほかのことが手につかなくなったような経験は誰にでもあるのではないかと思います。
その時に考えることといえば、その人と一緒に過ごすことができたらどんなに幸せだろう、一緒にああいうこともこういうこともしてみたい、相手を自分のものにしてしまいたい、というようなことです。
そのとき相手のことで頭がいっぱいになっているからといって、相手のことを思いやっているのとは違います。
それは自分の勝手な妄想や欲望でいっぱいになっているだけで、相手の立場になって、その人のことを思いやっているのではありません。
それは相手の人に愛されたいという欲求からきています。
相手に愛されたいと思うことと、愛することとは全く逆なことです。
執着によって相手のことで頭がいっぱいになるのは、それは自分へのこだわりととらわれからであって、相手のことを本当に思ってのことではないのです。
ですから仏教では愛という言葉を使わずに、仏陀や菩薩からの愛のことを慈悲という言葉を使っています。
慈悲とは、慈(いつくしみ)と悲(あわれみ)という言葉からできています。
仏教の四無量心に慈悲喜捨という言葉があります。
慈(サンスクリット語: maitrī, パーリ語: mettā) – 「慈しみ」、相手の幸福を望む心。
悲(サンスクリット,パーリ語: karuṇā) – 「憐れみ」、苦しみを除いてあげたいと思う心。
喜(サンスクリット,パーリ語: muditā) – 「喜び」、相手の幸福や成功を共に喜ぶ心。
捨(サンスクリット語: upekṣā,パーリ語: upekkhā) – 「落ち着き」、相手に対する平静で落ち着いた心。
「慈」を意味するサンスクリット語の「マイトリー (maitrī)」は、「ミトラ (mitra)」から造られた抽象名詞で、本来は「友情」「友人」の意味です。しかも、ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等な友情のことをいいます。
「悲」を意味するサンスクリット語の「カルナー (karunā)」は「抜苦」「憐れみ」という意味で、その原意は「呻き」(うめき)という意味で、大乗仏教においては、この他者の苦しみを救いたいと願いを表します。(ウィキペディア より)
つまりここでの「愛」は「慈悲」のことであり、相手を友人のように思い、その友人の幸せを望み、苦しみを除いてあげたいという思いです。
ですから、愛は相手のことのみを思うことであり、自分の思いからの執着とは真逆のことだといえます。
ですから、執着と愛とは敵どうして相容れることはなく、執着は愛を破壊し、愛を育み、養えば、執着はおのずと消えてゆくのです。