Oshoは9年間大学で哲学教授を務めた後、大学を去り、インド各地を旅しながら講演を行っていました。
その当時(1971ごろ~74)はボンベイを拠点としていましたが、Oshoの瞑想センターが海外にもできはじめ、西洋人の人たちも、Oshoのもとを訪れ始めます。
そこで次の段階として、Oshoの教えを求める人たちを受け入れる拠点を設けるということで、より大きな場所を探し求め、プーナのコレゴンパークのバンガローが購入されました。
プーナは標高600メートルほどのデカン高原にあり、ボンベイから3時間ほどの避暑地になります。
プーナのコレゴンパークは、高級住宅地で、まわりには大きなお屋敷が立ち並んでいます。
30年ほど前までは、静かな雰囲気をたたえていましたが、最近は交通量が増えて、騒がしい街になってしまっています。
コレゴンパークを走っている道路も、以前はいつでも横切ることのできたのどかな田舎道だったのが、今ではうかつには横切れないほどで、数年前ほど前に訪れたときには驚きました。
それはともかく、プーナに移るまでは、インド各地を遊説して、何万もの人々に語りかけていたOshoですが、プーナにい移ると一歩も出ることがなく、アシュラムに訪れる人々にのみ語りかけるようになりました。
ニューヨークやロンドンにもOshoの瞑想センターができるようになり、本が英語でも出版されるようになると、世界中から人々がOshoに会いに訪れるようになったのです。
それでは、「一万人のブッダたちへの百話」より、「Oshoの未来への洞察」をお楽しみください。
ジョティは語ります。
「 Oshoの未来への洞察は途方もなく大きいのです。
1971年には、数人の西洋人たちが相次いで到着し始め、サニヤスヘとイニシエートされました。
海外初のOshoの瞑想センターを作るために、ボンベイ出身のカルナがアメリカ人のプラティマとともにニューヨークに送られました。
Oshoは、数千人の人びとがすでにOshoのもとに来始めている、ネオ・サニヤス・ムーブメントは野火のごとく世界中に広がりつつあると語りました。
ラクシュミはより大きな土地を探すようにと言われました。
Oshoはある友人に宛てた手紙の中で、今やひとつの場所に定着しなければならないことを明らかにしています。
Oshoの旅は終わり、これからは、渇きを覚える者が泉に足を運ぶべきなのです。
ボンベイとその周辺を探し回った後、遂にプーナのコレガオン・パーク32番地にあるバンガローが購入されました。
1974年3月21日の朝、Oshoのエンライトメント・デイをお祝いするために、たくさんの友人たちがウッドランド・アパートのリビングに集まりました。
Oshoは午後から車でプーナに向けて出発します。これがウッドランド・アパートで行われる最後のセレブレーションです。
マ・タルーと数人の友人たちがキルタンを始めました。Oshoの足許に触れること、そしてプラサードを受け取ることが全員に許されています。
私は今朝、Oshoと一緒にプーナに行くためにスーツケースを持ってウッドランドにやって来ました。
Oshoがいないボンベイにいる自分は想像できません。Oshoが去ってしまったら、ボンベイは見捨てられた土地と感じられることでしょう。
セレブレーションは2時間続けられました。ほとんどの人が泣いています。私は、少し離れた場所に超然とした態度で立ちながら、その顔に感情の揺れが全く見られないOshoを見ています。
Oshoはこれまでになく穏やかで生き生きと見えます。
Oshoがボンベイを離れるからといって、私に影響はありません。自分はプーナでOshoと一緒にいるようになると確信しているからです。
セレブレーションの終了後、Oshoは昼食を取ってしばらくの間休息を取りました。
午後2時30分、Oshoの車は全体に花輪の飾り付けを済ませて出発の準備を整えました。
たくさんの友人たちがOshoに別れの挨拶をするために再び集まりました。Oshoが降りてきて、皆にナマステをし、そしてゆっくりと車に向かって歩いていきました。
なかにはこらえきれなくなって、声を上げて泣き始めた友人たちがいます。この場面全体が胸の張り裂けるような思いをさせます。
彼らがハートで愛する人が去ろうとしているのです。ラクシュミはすでに運転席に座っています。Oshoはその車の後部座席に座りました。
他にも友人たちの車が5台あり、Oshoについていくために待っています。私はスワミ・クリシュナ・アルプの新しいフィアットに乗りました。Oshoの叔父さんも一緒に乗っています。
その他の1台には撮影チームが乗っていて、この歴史的な出来事をビデオに撮っています。それから2、3分すると全ての車が他の車を追い越そうとしながら旅をしていました。
さよなら、ボンベイ ーー」
今日はここまでにします。
えたに