Oshoから離れることで学ぶこと

ジョティは、ごく初期の頃のインド人のOshoの弟子で、Oshoがプーナに行くまでは、Oshoの身近に長く過ごした経験を持っていました。

Oshoがプーナに移ってからは、ボンベイで仕事をし、祖母の面倒を診るためにOshoとは離れて過ごし、会いに行けるときだけ会いに行っていました。

そしてOshoがアメリカに渡ってからは、個人的に会うことはありませんでした。しかしその間にジョティは大切な学びを得ます。

それは、

Oshoと肉体的に離れていたこの数年間、私はようやく瞑想の沈黙の瞬間のなかでOshoと結びつくことを学んだのです。もはや離れていることからくる痛みはそこにありません。

ということです。

実際にOshoが肉体を離れたときに、その通りのことが起こりました。

Oshoがワールドツアーに出たときには、多くのサニヤシンたちはOshoとともに過ごすことはできなくなり、ジョティが学んだことを学ばなければなりませんでした。

それでは「一万人のブッダたちへの百話」より、「Oshoから離れることで学ぶこと」をお楽しみください。

ジョティは語ります。

「 1985年12月末に私はプーナに到着し再び経理のデパートメントで手伝いを始めました。

コミューンには5、60人のサニヤシンしかいず、全体的に寂れた感じが漂っています。

2週間後、Oshoがマナリを出てネパールに行ったというニュースを聞きました。
たくさんのサニヤシンたちがOshoと会うためにインドからネパールに向かっています。
どうしてか、私はOshoがどこかに行くたびに肉体的にOshoに近づいていくことは不可能だと感じています。

Oshoと肉体的に離れていたこの数年間、私はようやく瞑想の沈黙の瞬間のなかでOshoと結びつくことを学んだのです。もはや離れていることからくる痛みはそこにありません。

私たちはOshoがネパールのホテルに滞在していて、その会議室で朝と夜の講話を行っているというニュースを聞きました。

ネパール政府の官僚の中にOshoに興味を抱いている人物がいます。Oshoはネパールに落ち着くかもしれません。

それから1カ月半ほどが過ぎたある日、Oshoがギリシャに向けて出発し、そこからワールド・ツアーを始めるというニュースを聞きました。」

今日はここまでにします。

えたに