自分が苦しんだり、落ち込んだり、惨めに感じるときってどんなときでしょうか?
それは、何かに失敗してしまったときですか?
自分が思ったようにはうまくできなかったときですか?
それとも、失恋したとき?
人間関係がうまくいっていないとき。
仕事が思ったようにはかどらないとき。
学校の成績が悪かったとき。
学生時代の悩みは、学校の成績ではありませんでしたか?
学校のテストの成績に基づいて、あるいは学歴によって、教師から評価され、親から評価され、友達からも、世間からも評価されてしまいます。
学校教育の過程で評価されること、評価することを学び、その結果あらゆることについて比較し、評価することを学びます。
そして社会人になれば、どの会社に勤めているかで評価され、また会社のなかでも仕事が評価され、役職で評価されます。
この社会のシステム全体が、評価することで成り立っています。
それは学校教育や社会のシステムが頭(マインド)志向によるもので、左脳教育を基礎に成り立っているからです。
人生のすべてが頭(マインド)志向の社会のシステムによって評価され、他人からの評価によって自分自身も評価してしまっています。
その結果、自分自身のなかに多くの苦しみを作り出してしまっています。
私は評価や比較、競争そのものが悪いとは思いません。
それによって努力し、進歩し、喜びを感じることもあるからです。
競争しあいながらも、お互いを評価し、認め合い、友情を育てることもあります。
競争はいけないからというので、小学校の運動会で、みんな手をつないでゴールしました、という記事を読んだことがありますが、それもまた違うような気がします。
評価が必要なときもあり、比較したり競争したりするのはマインドの機能であり、人が左脳を働かせるとき、それは避けられません。
現実には競争があり、そのなかで応援したり、チームが団結したり、かけっこで転ぶこともあったり、負けて悔しかったり、傷ついたり。
そこに人生の現実があったりします。
評価することの問題は、その一面的な評価だけが絶対のように思い込んでしまい、その評価を吟味しないで受け入れてしまったときに起こります。
その他人の評価を鵜呑みにして、自分自身をも評価してしまうことで苦しみ、惨めになってしまうのです。
人はそれぞれユニークです。
運動がダメでも、美術や音楽や文学などのアートで優れた才能があったりもします。
その人の存在そのものがユニークであり、価値があるのです。
自分はユニークだということに気づけば、他人からの評価に惑わされることなく、あるがままの自分自身を受け入れることができるようになります。
自らの不完全さ、失敗、誤り、もろさをも謙虚に受け容れることもできるようになります。
すべての人がユニークだということがわかれば、それぞれの人をあるがままに受け入れることもできるようになります。
そして、そのようにあるがままに受け入れることができるのはハートの機能です。
人々はあなたを評価した
そして、あなたはそれを吟味することなく受け容れてしまった
あらゆる種類の人々の評価に悩まされながら
あなたもまたそのような評価をほかの人々に投げつける
このゲームはすべての均衡を破壊し
人類全体がそれによって苦しんでいる
そこから脱出したければ
まず、自分自身を評価しないことだ
自らの不完全さ、失敗、誤り、もろさを謙虚に受け容れなさい
そうではない振りをする必要はない
ただ、あるがままの自分でいなさい
「私はこのとおリーー恐怖でいっぱいだ
暗い夜には外に出られない
深い森に入ることもできない」とーー
どこが悪い?
たんに、人間的であるというだけだ
一度、自分を受け容れたら
ほかの人々も受け容れることができる
それは、ほかの人々も同じ病気で苦しんでいるという
明確な洞察を得るからだ
そして、あなたが人々を受け容れることが 人々が自分を受け容れることの助けになる
私たちはその全過程を逆転させることができる
あなたが自分を受け容れることによって
ほかの人々を受け容れることができるようになる
そして人々は
自分たちを受け容れてくれる人がいるから
初めて、受け容れることの美しさを学ぶーー
それは何と安らぎに満ちていることか
そして彼らはほかの人々を受け容れはじめる
全人類が
すべての人をあるがままに受け容れるところまで到達すれば
惨めさのおよそ90パーセントはあとかたもなく消え去るーー
惨めさに根拠はない――
あなたのハートは自然に開かれ
あなたの愛は流れはじめる
「ゴールド・ナゲッツ」 by Osho
マインド(頭)は評価することが役割なので、マインドにいる限りは、あるがままに受け入れることはできません。
あるがままでいることを学ぶには、ハートの機能を学ぶことが必要になってきます。
受け容れることの美しさを学ぶことができるのは、ハートの美しさです。