Oshoはなぜ講話に命をかけたのか?

Oshoは世界で650冊以上もの本となって残される講話を世に送り出したわけですが、どうしてそれほどまでに講話をしたのでしょうか?

「祖師西来意」という公案が禅宗にあります。

禅宗では達磨を重要視し、「祖師」の言葉で達磨を表し、「祖師西来意」というのは、達磨大師が西から来た理由は何か?ということを意味します。

なぜ達磨は中国にまで渡ってその教えを伝えに来たのか、という意味でもありますが、そこでは「仏法の根本の意味」ことがこの公案では問われています。

私にとっては「Oshoはなぜ講話をしたのか?」というのが公案です。

Oshoはそれらの講話で何を伝えようとしたのか?

Oshoの行動を見ていると、その講話に命をかけていたように思えます。

彼の講話は、準備も何もなく、ただその場で語り始めます。

なんの準備も原稿もなく、あれだけの講話を語り続けるって、人間業とは思えません。

Oshoはワールドツアーのあと、インドのボンベイに戻り、その噂は瞬く間に広がりました。

多くの人々がOshoに会うために押しかけました。

そして、なんと、その翌日からOshoは講話を始めたのです。

しかも、朝晩です!

Oshoは昼食を取った後で休息を必要としました。

ニーラムがOshoが私たちと2時に会うというメッセージを持ってきました。
なぜかOshoがボンベイに到着したというニュースは広がり始め、3時には2階の大きなリビングはOshoを愛する人びとでぎっしりと詰まっていました。

Oshoは帽子はかぶらずに純白のローブに身を包んで部屋から出てきました。
とてもさわやかで輝いて見えます。

皆に向かってナマステの挨拶をして椅子に座りました。
雰囲気は非常に軽やかです。
何か信じられないようなことが起こったのです。
溢れんばかりの笑いがあります。

Oshoは数年ぶりで私たちに囲まれて座っています。
かつてのボンベイの日々が戻ってきたように思われます。

その翌日から朝と晩の講話が始まりました。
朝の講話でOshoは報道陣に向かってワールド・ツアーやアメリカ政府の不当行為を中心に語っています。

ゴールド・ナゲッツ」 by Osho