わが家はいずこに?

わが家って何でしょう?

それはどこにあるんでしょう?

わが家というと、自分がくつろげる場所をイメージします。

愛する人と、愛する家族のいる場所を意味するかもしれません。

そのマイホームを持つために、人は多くの努力をします。

そのマイホームを持つために、生涯をかけていたりもします。

マイホームのローンを支払うのに、何十年もかかりますし、そのために働かなければなりません。

ローンを支払っても支払っても、最初は利子しか減らず、元本はなかなか減りません。
銀行に奉仕しているようなものです。

なぜそれほどまでしてマイホームやわが家を持とうとするのでしょうか?

それはそこにこそ、幸せがあるように思うからでしょう。

そこに夢を見るからでしょう。

わが家を探し求めている人は、
つねに絶望にさいなまれる
そして最後に次のように感じる
「私たちは蝙された   
生は私たちを編した
生は何とかして
わが家を見つけたいという願望を
私たちに抱かせたが
結局はわが家などないーー
どこにもないではないか」

私たちはあらゆる方法で
家を築こうとする

夫を見つけ
妻を見つけ
わが子を世の中に送り出す……
人は家庭を築こうとするーー
それは心理的な意味での家だ

人は家を建てるばかりでなく
それを、ほとんど生命ある
ものにまでしようと試みる

人は自らの夢に基づいて
わが家を築こうとする

それが暖かさをもたらすと思い込み
この冷たさのなかで……

そうだ、それは広大だ
ーーこの存在の冷たさーー
宇宙全体があまりにも冷たく、
あまりにも無関心だから

あなたは自分のための
小さな避難所をつくりたい

そこであなたは面倒を看てもらっている
何かに守られている
これは自分のものであり
自分が持ち主であり
自分はわが家を持たない
放浪者ではない

と感じることができるような―

だが、実際は
このような考え方が惨めさをもたらす

なぜなら、いつの日か
ともに過ごしてきた自分の夫が
ともに過ごしてきた自分の妻が
実は他人だったと判明するからだ

50年間ともに過ごした後でさえ
他人同士という感覚は消え去らない――
逆に深まってしまう

初めてふたりが会った日の方が
他人ではなかった

ゴールド・ナゲッツ」 by Osho

マイホームを持ち、そこに幸せな家庭を築くことはすばらしいことです。

しかしそれは移ろいやすいものでもあり、幸せは同時に絶望や苦しみにもなりえるということは知っておく必要があります。

それを知った上ですべきこと。

それは自分の内側にもわが家を見いだすことです。

そのわが家は「独り」のスペースですが、最もくつろぐことができ、ただあるがままであることができるものです。

外側のわが家と内側のわが家。

内側にわが家を見出したとき、存在は暖かく、宇宙全体からの愛を感じることができるでしょう。