ジョティのOshoと過ごした日々も、いよいよ終わりに近づいてきました。
Oshoのプーナでの時代が終わりを迎えようとしています。
1974年にボンベイからプーナに移り、アメリカに移るまでの7年間を、第1期のプーナと呼んでいます。
第2期のプーナの時代は、1985年にアメリカを出て、その後1年間にわたるワールドツアーを終えて、1987年にプーナにに移ってからOshoが肉体を離れる2000年の1月19日までです。
1981年当時、Oshoは背骨の痛みが悪化し、その治療のためにアメリカに向かったのでした。
しかしOshoの磁力は人々を世界中から集めることになり、アメリカのオレゴンにコミューンが建設されることになったのです。
それはともかく、このプーナの最後の時代に「サットサング」が行なわれました。
マスターの臨在のもと沈黙して座るというサットサングは、ある意味Oshoが目指していたものでもありました。
なぜなら、マスターから弟子に伝えられるもの、それは言葉では伝えられないものだからです。
マスターの臨在のもと沈黙して座るということのなかで伝わるものだからです。
禅では、その沈黙して坐ることのなかで仏陀が伝えようとしていたことを受け取るのです。
Oshoはあれだけ多くの言葉を語りながらも、それは沈黙を伝えるためだと語っています。
禅の師、道元は「正法眼蔵」というあれだけの書物を残しながら、不立文字、只管打坐を伝えたようなものです。
それでは、「一万人のブッダたちへの百話」より、より、「サットサング」をお楽しみください。
ジョティは語ります。
「 Oshoは1981年2月24日の講話を最後に、2月25日から出てこなくなりました。
腰のあたりが痛み始め、背骨に何らかの異常があります。どの治療も効果がないようです。Oshoは徹底的に休息を取る必要があります。
サニヤシンたちが、ポーディアムに続く道の修復工事を始めました。Oshoにとってもっと使いやすくするために、道の高さをポーディアムに合わせる必要があります。そうすることで、これまでのようによじ登るのではなく、2、3歩、歩けばポーディアムに出てもらえるようになります。
1981年5月1日、Oshoは出てくるようになり、ブッダ・ホールで私たちと沈黙して座りました。インドの伝統ではこれをサットサングと呼んでいます。
サットサングとはマスターの臨在のもと沈黙して座るという意味です。それは私にとってユニークな体験でした。
サニヤシンたちの演奏によるミュージックが時折流れ、それによって沈黙は深められていきました。
サットサングは1カ月間続けられました。コミューンの他の全ての仕事はふだんどおりに行われています。
そうした1981年5月21日午後12時30分、昼食を取りに行くためにオフィスを出た私は、たくさんのサニヤシンたちが互いに抱き合っている姿を見ました。なかには泣いていたり、笑っていたり、目を開じて静かに立っている人がいます。
何事が起こったのかを尋ねてみると、Oshoがボンベイに向けて出発し、治療を受けるためにアメリカに向かうのだということを知らされました。このことはOshoの身の安全を考慮して、私たち全員に秘密にされてきたのです。
片隅でひとり座りました。涙が止まりません。気が済むまで静かに泣きました。そしてOshoはすぐに戻ってくると考えて自分を慰めました。
それから数日後、サニヤシンたちがコミューンを離れ始めました。私は父に会うためにボンベイの実家に戻りました。
父は私に仕事を辞めて家を出ていたことを、今となって後悔しているのではないかと尋ねました。私は「もし仕事を続けていてプーナに行っていなかったら、きっと後悔していた」と答えました。
プーナで過ごしたこの1年は私の生において最も貴重な日々でした。この1年の間、Oshoが非常に多くを与えてくれたので、私はすっかり満足しています。そして、私を正しい時期に呼んでくれたOshoに感謝しています。」
今日はここまでにします。
えたに