涙が流れました

このブログでは、「ゾルバザブッダクラブ」( [ZBC])というメルマガで紹介していたOshoの言葉について、転載しています。

そこで紹介したOshoの言葉について、お便りをいただきましたので、こちらでもご紹介します。

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えたにさん、こんばんは。

ニックネーム”ことひら”で参加させていただきます。

行為は助けにならない、
行為は再び同じ轍になる

行為ではなく、
存在のみがあなたを変える

だから何度も何度も失敗すると、
そのときはじめて

「行為が私をどこかへ
導くことはけっしてない」
という洞察が生まれる

剣があなたを斬る日がくる」 
                              Osho
 
涙が溢れました。

私は長い間、物理次元の自分と魂の自分の間で葛藤していましたが、いろいろな経験を積み重ね、今年に入り、魂の自分を選択しました。
”Doing”ではなく”Being”だと気付いたのです。

正確には、”Being”で生きていくことを選んだというのが正しいかもしれません。
  
「使命を全うしないと」とか「何か行動を起こさないと」と思っている時は葛藤ばかりで幸せではありませんでした。

「自然体のわたしのままで、ただ存在する」と決めたら恐れがなくなりました。外の世界に意識が向き過ぎた時は、自分の中心に戻ることを心がけていますが、まだ試運転です。
   
『子供の時は自然と一体となって、ただそこに存在していた」ことを思い出しました。そこに悩みはありませんでした。

何かに包まれているような心地よさと平安があり、守られているような感じがありました。わたしは、またその状態を選んで生きていくことにしました。

このようなことを語る機会が実生活にはありませんので、 [ZBC]でみなさまと交流したいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
   
ことひら

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ことひらさん

お便りありがとうございます。

「涙が溢れました。」

というひとことに、共鳴するものがありました。

Oshoの言葉に涙することは、私も度々あります。

言葉さえも必要はなく、ただ、彼と波長を合わせることだけで内側深くで共鳴するものを感じ、涙が流れます。

涙は、悲しみの涙や喜びの涙だけではなく、さらに深いところからの理由もなく流れる涙があります。

その涙は、ことひらさんの「存在」がOshoの言葉に触れて共鳴することから溢れてきた涙のように思います。

ことひらさんが「存在」に触れた瞬間ですね。

そこで涙が溢れたのは、それが、ことひらさんが求めていたものだからですね。

そのように、何かを求め、探し求めて、真理に出会った時、

それを教えてくれるのは、涙だったりします。

> 私は長い間、物理次元の自分と
魂の自分の間で葛藤していましたが、

> いろいろな経験を積み重ね、
今年に入り、
魂の自分を選択しました。

> ”Doing”ではなく
”Being”だと気付いたのです。

> 正確には、”Being”で生きていく
ことを選んだというのが
正しいかもしれません。

その答えを、このOshoの言葉の中に感じだのでしょうね。

ただ、ここでひとこと言わせてもらうと、

物理次元の自分と魂の自分の間で葛藤」する必要はないということをOshoは教えてくれています。

これまでそのような葛藤を作り出してきたのが、これまでのスピリチュアリティの伝統でした。

これまでキリスト教をはじめとする宗教は肉体を否定してきました。

その根本的なやりかたはセックスを否定することでした。そうすることによって、内側に分離を作り出したのです。

Oshoはそのことを厳しく批判し、すべてを受け入れる「タントラ」の道を教えています。

ラハシャの「コンシャスリヴィング」では、タントラマスターのラハシャが、具体的にどのようにタントラのセックスしていけば良いのか
ということを詳しく語ってくれています。

そこで言えることは、

物理次元の自分と魂とで葛藤する必要はないということです。

魂は、物理次元の自分を楽しむことができるのです。

そこに分離と葛藤を引き起こしているのはマインドです。魂ではありません。

物理次元の自分の中に魂は宿っているのであり、物理次元の自分の中で魂は喜ぶことができるのです。

そして、物理次元の自分の波長を上げていくことで、セックスから愛へ、愛から祈りへと次元を上げていくこともできるのです。

物理次元の自分と分離するよりも、受け入れることを学んでいけるといいですね。

私がなぜ、このメルマガで次元についての話をしてきたかというと、別の観点から、

物理次元の自分と魂の自分の間で葛藤」する必要はない、ということを説明するためでした。

3次元には1次元も2次元も含んでいるのです。

魂の次元は肉体も物理次元も含んでいるものなのです。

そこには分離はありません。

物理次元も魂の次元も、同じ波動であり、同じエネルギーなのです。

ただ、その波動の粗さ(波長)が違うだけなのです。

Oshoはそのことを次のように語っています。

ツアラトゥストラは人類に、
あなたが肉体を愛さない限り、
あなたが肉体を理解しない限り、
精神的に成長することができない
ということを教えた
最初のティーチャーだ。

この肉体はあなたの魂の寺院だ。

肉体はあなたに
何の見返りも求めることなく、

生涯にわたってあなたに仕える。

それなのに肉体を非難するのは醜い。
なぜなら肉体を非難するこれら
すべての者たちは肉体から
生まれているからだ。

彼らは肉体を使いながら
肉体を非難している。

彼らは肉体を使って
人生を生きながら、

人類は非常に危険な
イデオロギーを受け入れた。

肉体と魂を分離させたのだ。

分離させただけではなく、
全く逆のことをした。

肉体か魂を選ばなければ
ならないというのだ。

それはより大きな哲学の一つだ。
物質と霊魂(スピリット)。

肉体は物質であり、
魂は霊魂(スピリット)だ。

そしてこれらの肉体を
非難する者たち、

肉体を軽蔑する者たちは、
一つの考えにフォーカス
するようになった。

 
それは、世界は二つのもの
でできている、
物質と霊魂(スピリット)だ。

しかし、今では私たちは知っている。
論理だけではなく、
経験を通しても、
科学的な証拠によっても、

ただ一つの実体があるだけだ。

それを物質と呼ぼうが
スピリットと呼ぼうが関係はない。

肉体と魂、物質とエネルギー、
それらは一つであり同じものだ。

存在は二元性ではない。
それは有機的全体だ。」

2次元(マインド)の世界で生きている限り、そこには二元性があります。しかし4次元の世界(存在Being)には分離はありません。

「使命を全うしないと」とか
「何か行動を起こさないと」と
思っている時は葛藤ばかりで

> 幸せではありませんでした。
> 自然体のわたしのままで、
ただ存在する」と決めたら
恐れがなくなりました。

> 外の世界に意識が向き過ぎた時は、
自分の中心に戻ることを
心がけていますが、

> まだ試運転です。

すばらしい、試運転です。真理の探究は、そのような試運転からはじまります。

いい方向に試運転されていますね。

自然体のわたしのままで、
ただ存在する」と決めたら
恐れがなくなりました

「決めたのは誰ですか?」とラハシャなら聞きそうですが、恐れがなくなったのはいい兆候ですね。

存在はすでにそこにあるものですから、ただそこにくつろいでいることができるようになればいいですね。

試運転、楽しんでください。

>『子供の時は自然と一体となって、
ただそこに存在していた」
ことを思い出しました。

> そこに悩みはありませんでした。
> 何かに包まれているような
心地よさと平安があり、
守られているような感じがありました。

> わたしは、またその状態を
選んで生きていくことにしました。

まさにその通りです。

それは思い出すことであって、「決める」必要はないのです。選ぶ必要もありません。

ラハシャは「コンシャスリヴィング」の「エッセンスとは何か?」という動画の中で次のような話をしてくれています。

ラハシャの語りの中で聞いていると、思わず涙が流れそうになる、美しい話です。

その一部をここにご紹介しますね。

「ある幼い兄弟の、
素晴らしいお話があります
お兄さんは4歳で

赤ん坊は生まれたばかりで
彼がお母さんに尋ねました

「お母さん、赤ん坊と
二人だけにしてくれる?」

お母さんは息子が何をしたいのか
ちょっと心配になりました

お兄さんは何度も
なんども尋ねたのですが

最初は お母さんは 
「ダメダメ」って言っていました

赤ん坊は安全である
必要があったからです

でもそのうちに興味が出てきて

ある日 その願いを聞き入れて
その赤ん坊といることを
ゆるしました

するとお兄さんは、ベッドを覗き込んで
赤ん坊を見て

「僕に神様のことを思い出させて
僕は忘れはじめてしまったんだ」

お母さんはそれを見て、
とても感動しました

私たちはみな、
忘れはじめたどころか

すっかり忘れてしまいました

すべてとひとつであることを

意識的に生きるということは
全体と調和して
生きるということです

これがエッセンスについての概略です」

『子供の時は自然と一体となって、
ただそこに存在していた」
ことを思い出しました

まさに、それが「エッセンス」なのです。

> このようなことを語る機会が
実生活にはありませんので、
[ZBC]でみなさまと交流したいと思います。

> どうぞよろしくお願いいたします。

はい、まさに、[ZBC]はそういうことを語り、交流できる場であればと思います。

 

今日はここまでとします。

えたに