行為と行動

Oshoの言葉から。

行為は助けにならない
   行為は再び同じ轍になる
 行為ではなく
   存在のみがあなたを変える

ということについてご紹介していますが、

存在のみがあなたを変える

というのは、どのようにあなたを変えるのでしょうか?

そのことを考えるにあたって、次のようなOshoの言葉が参考になります。

もし、あなたが
もっともっと〈行為〉のほうに身を呈し、

だんだんと〈行動〉の支配を離れるなら、

あなたの人生は変化し、
それは深いリラックスとなるだろう。
そうしたら、あなたはものごとをして、

しかもくつろいだままでいられる。

「存在の詩」Osho

ここで、「行為」と「行動」の違いなのですが、

これは、Oshoがどのような言葉を使っているかわからないので、
なんとも言えないのですが、

行為は助けにならない、
行為は再び同じ轍になる

行為ではなく、
存在のみがあなたを変える

という場合の「行為」というのは、

もし、あなたが
もっともっと〈行為〉のほうに身を呈し、

だんだんと〈行動〉の支配を離れるなら、

と言ってる場合の〈行動〉にあたると思われます。

そして、ここで〈行為〉と言っているのは、「無為の為」のことを言います。

つまり、「存在」からの行為のことです。

このように、Oshoの言葉を受け取る場合、翻訳者によって、言葉の使い方が異なっていたりするので、それも翻訳されたOshoの言葉を理解する時に混乱のもとになるところです。

それは翻訳者の言葉の定義の仕方が違うということと、Oshoの言葉に対する理解が翻訳者によって違う、ということがあります。

あるいは、文脈によって、言葉の定義が異なったりもします。

私もOshoの「道元」という本を翻訳したことがあるのでよくわかるのですが、

私が翻訳する時に、Oshoの言葉を翻訳する時の心得として厳しく言われたのは、

「自分の解釈を挟まないように」ということでした。

つまり、自分のマインドで解釈してしまうと、Oshoの本来の意味を、自分なりの意味に捻じ曲げてしまう危険があるから、というのです。

しかし、日本語として美しくするには、ある程度、その言葉の趣旨を汲み取って、「日本語」にする必要があります。

そこにジレンマと葛藤が生じるのです。

同じ英語の言葉でも、いろんな日本語の意味があるわけなので、そこで、どの意味を当てはめるか、ということだけでも同じ英語でも、全く異なった意味になったりもします。

ここでの「行為」と「行動」という言葉についてもそうです。

そこで、ここでは

行動」というのは2次元のマインドからのもので、

行為」というのは「無為の為」つまり、4次元の存在からのもの、というふうに定義することにします。

そうすると、

もし、あなたが
もっともっと〈行為〉のほうに身を呈し、

だんだんと〈行動〉の支配を離れるなら、

というのは、

もしあなたが、もっともっと
「存在」のほうに身を呈し、

だんだんと「マインド」
の支配を離れるなら

というふうに置き換えて解釈することができます。

そうすると、どうなるか?

あなたの人生は変化し、
それは深いリラックスとなるだろう。

そうしたら、あなたはものごとをして、
しかもくつろいだままでいられる。」

ということになります。

この場合は

行為は助けにならない、
行為は再び同じ轍になる

行為ではなく、
存在のみがあなたを変える

という翻訳は、

行動は助けにならない、
行動は再び同じ轍になる

行動ではなく、
存在のみがあなたを変える

というふうに翻訳し直すことになります。

そのように解釈すると、

これまで紹介してきたOshoの言葉は、次のようになります。

マインドからの行動は助けにならない、マインドからの行動の支配を離れ、もっともっと存在からの行為に身を呈することによって、

人生は変化し、深いリラックとなるでしょう。そうしたら、あなたは何をしていてもくつろいだままでいられるようになる。

そんなふうな人生を歩めるといいですよね。

ブッダ」というのは、そんなくつろいだ人生を生きている人ということになります。

 

今日は、ここまでとします。

えたに