Oshoの言葉
美しい朝
美しい朝だ
何度も何度も太陽はのぼる
そしてそれは常に新しい
決して古くなることはない
今日の朝も、
また存在の奇跡が起きている
毎瞬毎瞬がハプニングだ
しかしごくわずかな者だけが、
非常に限られたごく少数の者だけが
それに遭遇する
遭遇する(エンカウンター)
という言葉は、ほんとうに美しい
その瞬間のありのままに出会うこと
ただありのままを見ること
何も付け加えることなく
何も取り除くことなく
どんな編集を付け加えることもなく、
ただありのままのそれを見ること
鏡のように・・・・
Osho
> 遭遇する(エンカウンター)
という言葉は、ほんとうに美しい
> その瞬間のありのままに出会うこと、
> ただありのままを見ること
禅では、
道元は、眼横鼻直 と言いました。
花は紅、柳は緑
というのも同じことです。
あたりまえのことがあたりまえに見えるということです。
「眼横鼻直」というのは、
目は横についていて、鼻はまっ直ぐタテについている
という当たり前のことを言っているわけですが、
道元は、それが悟りの境地だ、と言ったのです。
道元は24歳の時中国に渡り、
そこで天童山景徳寺の如浄和尚に出会い、
悟りを得て帰国しました。
その時の心境を書いた言葉の中に、次のように書いています(永平広録)。
只だ是れ等閑に天童先師に見えて、
当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞せられず。
ちょっと難しい言葉ですが、要するに、
ただ偶然にも師である天童禅師に会うことができて、
そこで眼は横、鼻は縦についているという、ごく当たり前のことを悟り、
その他のことに惑わされることがなくなった。
ということなんですね。
それはどういうことかというと、次のように語っています。
便乃、空手にして郷に還る。
(そして、お経も何も持たずに帰ってきた。)
所以に一毫も仏法無く、任運に且く時を延ぶ。
(だから仏法などというものは、何もない。)
朝、朝日は東より出で、夜、夜月は西に沈む。雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低し。
(毎朝日が東から昇り、毎夜月は西へ沈む。雲が去れば山が姿を現し、
雨がやめば山の木々は潤って低くモヤがかかっている)
要するに、
あたりまえのことが、あたりまえに起こっている。。。
というような意味になると思います。
Oshoはこのことを次のように言っているわけです。
> 何も付け加えることなく、
> 何も取り除くことなく、
> どんな編集を付け加えることもなく、
> ただありのままをそれを見ること
> 鏡のように・・・・
それが、禅の瞑想だと。
このように、ものごとを見ることができたら、
それが瞑想ということになります。
あたりまえのことを、あたりまえに見て、
ということは、マインドには難しいです。
マインドがあると物事をあるがままに見ることができません。
マインドは常にものごとを比較し、分析し、判断し、評価し、解釈しています。
そうすると、目の前にある、あたりまえの幸せが見えなくなってしまいます。
そして世の中にあるおかしなことも、おかしなこととして見れなくなってしまいます。
コロナにこれだけ大騒ぎして、誰も彼もが、検証が十分なされていないワクチンを打ち、
それに対する批判さえ許されず、全世界の人々がマスクをつけました。
普通にみたらおかしいと思うんですけど、それをおかしいとも思えなくなってしまうって、
それは、マインドが作り出している世界に私たちが生きているからです。
美しい朝
この一瞬のエンカウンターを楽しみたいものです。
今日はここまでとします。
えたに