Oshoの言葉を聞いていると、しばしば「え?!」という言葉に遭遇します。
「そんなことあり得ないでしょ!」
「それってどういう意味???」
と思われるような言葉です。
以下にある、「ゴールド・ナゲッツ」のOshoの言葉もそのひとつ。
オーガズムは子孫をつくるために必要なものではない
それは、意識がさらに高く進化する窓を開くためのものだ
オーガズムといえば、セックスに伴って起こるものだという固定観念があると、それ以外のありようがわからないので、「オーガズムは、意識がさらに高く進化する窓を開く」って意味不明な言葉です。
「なに言ってんのそれ?」って感じです。
でも、Oshoの言葉をよくよく聴いているうちに、自分の思い込みがだんだんとほどけて、言っていることの意味がだんだんにわかるようになってきます。
そして、いろいろ試行錯誤しているうちに、瞑想がオーガズムだと言っていることの意味が腑に落ちて、「なるほどぉ~」って思えるようになったりもします。
瞑想は苦行ではなく、至福なんだということです。
ある意味、セックスのオーガズムは、相手と一つになることから生じるものだとすれば、瞑想は存在と一つになることから生じるオーガズムみたいなものだと言えるのかもしれません。
存在がもたらす、究極のオーガズム。
そのためには、Oshoの言葉を聞くのではなく、傾聴するという姿勢が必要です。
今までの先入観を取り去って、ただ聴く、ということができなければ、Oshoの言葉を本当には聴くことはできません。
英語では聞く(hear)という言葉と聴く(listen)という言葉の違いがあります。
その違いについてOshoは次のように語っています。
聞いている(hear)というのは機械的だ。
耳があるから、あなたは聞くことができる。
もしあなたに聴覚障害があるなら、
機械的補助で聞こえるようになるかもしれない。
あなたの耳は、音を受け取るための
一種のメカニズムに他ならない。
聞いているというのは非常に単純だ。
動物には聴覚があり、耳を持つ者は誰でも
聞く能力をもっている。
だが傾聴することは、はるかに高度な段階だ。
傾聴(listen)とは、あなたが聞いているとき、
ただ聞くだけで、聴くこと以外は
何もしていないという意味だ。
あなたの心に何もほかの思いがない。
あなたの内なる空に、どんな雲もよぎっていない。
だから何であれ言われていることが、
言われているままに届く。
それはあなたの思考(マインド)
によって妨害されない。
あなたによって、
あなたの偏見によって解釈されない。
たった今あなたのなかを通過している
どんなものにも曇らされていない。
というのは、そういうものはすべて歪曲だからだ。
以下の「ゴールド・ナゲッツ」からのOshoの言葉を傾聴してみてください。
新しい視野が開けてくるでしょう。
オーガズムの体験は
けっして性的ではない
たとえセックスによって
オーガズムに到達したとしても
オーガズム自体に性欲はない
性的ではない方法によって
オーガズムに到達する可能性が
あるかもしれないという洞察は
そこから生まれる
オーガズムそのものが゛
性的でないのだから
性欲は、かならずしも
唯一の途ではないはずだ
誰であれ,これを最初に体験した人はみな
オーガズムに到達する途がほかにもある
という結論に達したに違いない
セックスはかならずしも
そこで役割を持つ必要がないからだ
オーガズムにはセックスの
いかなる色彩も印象も残っていない
そこでその人は
どのようにしてオーガズムが
起こるかを観察したに違いない
その後のことは明白だ
オーガズムが起こる瞬間に
時間が停止する
あなたは時間を忘れる
マインドが停止する
あなたはもはや考えない
そこには、計り知れない静けさと
大いなる覚醒がある
この体験を通過する観察者は
みな自然に次のように考えるだろう
「もしこのようなこと
―― 覚醒、無思考、無時間を
セックスなしに達成することができれば
性欲を介さずにオーガズムの状態に
到達できるはずだ」
そして、これが私の見解だーー
このようにして
人間は初めて
瞑想を発見したに違いない
これはタントラやヨーガでの瞑想などで
経験することでもある
オーガズムが起こる瞬間に
時間が停止する
あなたは時間を忘れる
マインドが停止する
あなたはもはや考えない
そこには、計り知れない静けさと
大いなる覚醒がある
「ゴールド・ナゲッツ」by Osho
このオーガズムの状態と瞑想の状態は等しいということに気づき、
「もしこのようなこと
―― 覚醒、無思考、無時間を
セックスなしに達成することができれば
性欲を介さずにオーガズムの状態に
到達できるはずだ」
ということの洞察は、Oshoの独創性だと思われます。
瞑想とオーガズムとの関係について、これほど論理的に、明確に、わかりやすい解説を聞いたのはOshoがはじめてでした。
これは既存の宗教的観点からは思いもよらない発想で、「セックスから超意識へ」という講話によって、それまで聖者として尊敬を集めていたOshoは、その講話を境としてさまざまな宗教の人々からから批判を受けるようになったのでした。