今回は、Oshoが語る人類のビジョンについてです。
それは、どのように生きるのか、という生き方についてのOshoのビジョンでもあります。
Oshoはこのようなことを語るので、宗教者の反発を買ってしまうのですね。
しかしOshoがこのように語らなければならないのは、それは人類がこれまでの宗教裁判をはじめとする、さまざまな宗教的な抑圧や弾圧という人間性の否定によって、人類の本来の生きるという可能性が否定されてきたという歴史があるからです。
しかもそれが過去のものではなく、今もその考えは生きつづけ、そのため人々がトータルに生きるということができなくなっているという現実があるからでもあります。
宗教裁判などは過去の歴史上のことであって、現代社会には関係ないように思うかもしれませんが、同じ体質は現在でも起こりつづけています。
それは、今起こっている多くの戦争や殺戮が宗教の名の下に行われているという現実を見ればわかります。
そして、それらのことは、キリスト教であろうと、イスラム教であろうと、仏教であろうと、宗教組織となり、それらの概念にとらわれてしまい、狂信的になってしまうと、いつでも起こりうることでもあるのです。
Oshoは語ります。
「私が人類に対して抱く全ヴィジョンとは
完全に生き生きとして、強烈に生き生きとして
生が可能にするものすべてを楽しむことだ
優雅さと存在への感謝を持って楽しむことだ
そしてそれが、自分を愛するということの意味だ
それが意味するのは、あなたは拒否や抑圧といった
宗教的なガラクタすべてを投げ捨てたということだ
あなたは宗教が与えてきたあらゆるアイデアを落とした
あなたはいまや、自分の足で立っている
あたかもあなたがアダムやイブであるかのようにだ
以前そこには聖職者はいなかった
以前そこには宗教はなかった
あなたは堕落させられてはいなかった
駄目にはされていなかった」
Oshoはこのあと、人はどのように学び成長するのか?
どのように生きることができれば、人は本当に幸せに生きて、死んでいくことができるのかということについて語っています。
人生を2倍楽しむ生き方。
生をあまりにトータルに探求し、十分知ったがゆえに、死のことが知りたくてたまらなくなるような生き方です。
そしてOshoは言います。
「そしてこれが生の逆説だ
死の用意のあるものは決して死なない
死に飛び込む用意のあるものにとって
死は消え失せる
死は臆病者のためだけにある
死は生きなかった者のためだけにある
生涯を通じて死んだままでいた者のためだけにある
死は生きている者のためにはない
あなたが生き生きとしていればいるほど
死は遠ざかる
あなたがトータルに生きていれば
そこには死はない
死は存在しない
そうなるとそこには生だけが
永遠の生だけがある」
それでは、Oshoの人類へのヴィジョン、をお楽しみください。
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今日はここまでとします。
えたに