Oshoは1974年から1981年まで、インドのプーナ(プネ)に瞑想のためのアシュラムを作り、そこで講話をして、ダルシャンなどを行い弟子を受け入れていました。
その後アメリカに渡りましたが、その間1985年までは沈黙の期間にあって、公の場で話をしたり講話をすることもありませんでした。
その間にOsho が滞在していたオレゴンのコミューンは、最初は泥沼のような荒地だったところから素晴らしい広大なコミューンができあがり、何万もの人々が訪れるまでになっていきました。
ところがそのOshoが沈黙にあった期間に、そのコミューンの運営を取り仕切っていたシーラの横暴により大きな社会問題が持ち上がり、Oshoがアメリカのメディアからのインタビューに対応しなければならなくなりました。そしてその後公衆に向けての講話を再開するようになりました。
しかしその後事態は急転して、1985年の12月、Oshoは逮捕され裁判にかけられ、アメリカを出なければならなくなります。そして一時インドに帰国後、ネパールを経てワールドツアーに出ました。
その間のアメリカでの出来事は、このブログでもご紹介したシュンニョの「Oshoとのダイヤモンドの日々」(絶版)に詳しく書かれてあります。
アメリカでのコミューンが素晴らしく発展し、多くの人々が訪れるにしたがって、キリスト教などの宗教のあり方について痛烈な批判を語ったOsho書籍も広まり、Osho及びそこに集う人たちはアメリカ政府からも危険視されるようになったのです。
そのコミューンの拡大と成功にともない、アメリカ政府はOshoを危険視し、裁判沙汰にして追放しようとしました。
しかし、どんなに捜査しても、Oshoからは何の罪も見つけることができませんでした。結局ごく些細な「移民法違反を受け入れなければ無期限に裁判を長引かせて留置所に拘留する」という、普通ならあり得ない司法取引を持ち出しました。
Oshoの健康を気遣った弁護士がその条件を飲むことを進言し、Oshoはアメリカを出ることになったのです。
それと同時にアメリカで発展していたコミューンは崩壊することになりました。
これらの一連の事態についてはアメリカ政府の要人へのインタビューや調査によって詳しく検証されています。
その調査によると、Oshoのコミューンの発展を危惧して、そのコミューンを崩壊させるために、アメリカ政府がOshoを追放するために仕組んだ裁判だったことが明らかなっています。
その間の詳しい経由は「アメリカへの道」という本に詳しく書かれています。
そして1986年、Oshoは再び、もといたプーナのアシュラムに戻ってきましたが、Oshoがプーナを離れていた6年間の間にすっかり寂れたものになっていたのです。
Oshoは再びそこでの活動を開始することにしました。
また振り出しに戻って、最初からのやり直しです。
そのひとつが、ここでジョティが紹介している「マスターと弟子たちとの間で交わされるエナジー・プレイ」です。
そのOshoのダンスは、まさに「その場全体がのOshoエナジーによって再び鼓動を始めました」というにふさわしいものでした。
Oshoのダンスとともに、こころのなかにダンスの火が灯るのです。
しかし、すでにそのころにはOshoがアメリカでの裁判の間に拘留されていた拘置所で盛られたタリウムの毒が彼の体を蝕み始めていたのです。
その結果、Oshoが原因不明のさまざまな体調不良と痛みに苛まされることになったのです。
それでは、「一万人のブッダたちへの百話」より、「私のOshoとの結びつき」をお楽しみください。
ジョティは語ります。
「 ザラトゥストラの講話シリーズではOshoはチャン・ツーに入ってくるときと出ていくときに私たちと踊りました。
それはマスターと弟子たちとの間で交わされるエナジー・プレイのようでした。その場全体がOshoのエナジーによって再び鼓動を始めました。
しかしそれも長くは続きませんでした。Oshoは肩を痛め、耳には感染症を起こし、再び皆の前に出てこられなくなりました。
Oshoを診ている耳の専門医はありとあらゆる治療を施したにも関わらず効果が全く見られないのを知って困惑しました。
その後、徹底的な検査を受けるためにOshoから採血した血を西洋に送りました。そしてOshoはアメリカの刑務所で毒を盛られていたということが明らかになりました。
Oshoの視力は日を追うごとに落ちています。Oshoにはどんな光にも耐えることができません。
Oshoが久しぶりにブッダ・ホールに出てきたときにはサングラスをかけていました。私にはサングラスをかけているOshoの方が素敵に思えます。それでもOshoのあの美しい海のような目を見られないのは残念です。
私はOshoの身体が日ごとに小さくなっているのに気づきました。Oshoは体重が減り、体力の衰えを感じています。そして病のために何度も講話に出てこられなくなりました。
最近、Oshoは主治医と身の回りの世話をしている数人の人たちとだけ会っていて、私がOshoと肉体的に会うようなことは全くありません。
私のOshoとの結びつきはもはやある深い層に達しています。
Oshoの肉体と会うことのできる機会がますます少なくなり、貴重な時間になってきました。
Oshoはある講話のなかで
「私を肉体としてみるものは、私を見過ごす」
と語っているのを聞いたことがあります。
肉体ではないOshoと結びつき、出会うこと。
そのことができた人は、今もOshoとともにダンスを続けることができます。
それは仏陀であっても、キリストであっても同じです。
今も彼らの意識は息づいています。」
今日はここまでにします。
えたに