Oshoがしばしば言っていたことの一つに、「あなた方にとって瞑想は買い物リストの最後にある」ということがあります。
人生の中のToDoリストで、優先順位が最後になっているという意味です。
「忙しくて瞑想できない」とか「瞑想する時間がない」という言い訳がその最たるものです。
瞑想に限らず、自分が何を一番望んでいるのか? ということが結局は今自分が手にしているものなんだろうな、っていう風に最近は思うようになりました。
それほど努力もしないで、のんびりしてそこそこの人生を送りたい人はそうしているだろうし、何が何でも自分が手にしたいものがあって、そのために最大限の努力をした人は、そのことを手にしているでしょう。
ただ、ここでOshoが「渇望」ということで意味していることと、マインドで望む欲望とは意味が少し違うように思います。
「欲望」はエゴやマインドのレベルでのものですが、「渇望」というとそれはもっと根深い、存在からのもので、ハートからのものであるように思われます。
Oshoがそこで次のような仏陀の話をしています。
「昔、仏陀がある村を訪れていた
一人の男が彼に尋ねた
「あなたは毎日のように、誰もが
光明を得られるとおっしゃいます
だとしたら、どうして
全員が光明を得ていないのですか?」
「友よ」、仏陀は答えた
「ひとつやってみなさい
――夜、村人全員の名簿をつくり、
名前の脇にそれぞれの
欲望を書くのだ」
男は村へ行き、みなに尋ねた
――それは小さな村で、
わずかな人々しかいなかった
彼らは答えてくれた
夜になって彼は戻り、
仏陀に名簿を手渡した
仏陀は尋ねた
「これらの人々の何人が、
光明を求めているのかね?」
男は愕然とした
光明を望むと記された人は、
一人もいなかったのだ
すると仏陀は言った
「わたしは、
誰もが光明を得られると言う
しかし、誰もが光明を望んでいる
とは言わないのだ」
誰もが光明を得られる
ということと、
誰もが光明を望んでいる
ということは格段に違う
もしあなたが望むのなら、
それは可能だと見ていい
あなたの探求が真理に対する
ものだとしたら、
この世のどんな力も
あなたを引き止められはしない
だが、真理を渇望していないなら、
どんな力もあなたにそれを
授けることはできない
だからまず、自分の渇きが本物か
どうかを吟味することだ
もしそうなら、道は用意されている
と安心していい
そうでなければ道はない
――あなたの渇きこそが、
真理への道となる」
自分がもし欲しいものを手にしていないなら、あるいは本当に瞑想していないなら、その時は「自分の渇きが本物かどうかを吟味することだ」ということになります。
別に瞑想しなければならないものではないし、どういう人生を生きるかはその人が決めればいいことです。
ただ一つ言えることは、自分が今手にしていることは、おそらくそれが自分が望んでいることで、そのことの責任は全て自分にあることだ、ということです。
この一連のOshoの話を聞きながら、そのことを自分で認識することが、自分にとっての「瞑想」になります。
そのことを自分で認識できたとき、果たして自分の人生はこれでいいんだろうか? ということの問いも同時に生まれてきます。
今日はここまでにします。
えたに