マスターとともにあるということは、そう簡単ではありません。
とりわけOshoのようなマスターとともにいると、いついかなる状況が降ってこないともかぎりません。
それがOshoの近くで過ごす弟子ともなると、さらにインテンス(強烈)な状況に直面させられます。
シュンニョもそのひとりですが、そのシュンニョの体験は、まさに私たちの体験でもあるわけです。
そして、シュンニョにできたのなら、自分にもできるだろうという希望にもなります。
Oshoがときどき「私にも悟れたのだから、誰でも悟れる」というふうに語るのを聞くことがありますが、やっぱり「いや、それはOshoだから悟れたのだ」と思ってしまいます。
ですが、シュンニョなら、僕たちと変わらないし、シュンニョにできたのなら、自分にもできるだろうと思えます。
Oshoの話だけを聞いていると、自分にそれが可能だろうかと思えることでも、ほかの知り合いたちにできたことなら、自分もできるだろうと思える……それがフェロートラベラー(旅の道連れ)がいることの良さです。
「スピリチュアルな道において、もっともすばらしいことのひとつは、すべての状況は内面の探究のために使われるということです」というのは、まさにその通りです。
まぁ、なにがあっても「これも瞑想だな」と思えば、なんとかやり過ごせるものです。
Oshoは語ります。
「永遠の愛という誤った観念を落としたならば、
嫉妬はひとりでに消える。
嫉妬は無意味だ。
恋に落ちるのが
どうにもならないことであるのと同じように、
ある日、恋からさめるというのも
どうにもならないことだ。
あなたの生を、そよ風が通りすぎていった。
それは心地よく、美しかった。
芳しく、涼しげだった。
あなたはそよ風に留まってほしかった。
すべての窓と扉を閉ざし、
そよ風の芳しさと
涼しさを留めようとした。
だが窓と扉を閉ざしたことで、
あなたはそよ風を殺してしまった。
その涼しさと芳しさを殺し、
よどんだ空気に変えてしまった」
[Beyond Psychology]
シュンニョは語ります。
「ミラレパとのあいだで男と女としての関係が終わり、それが友情としてふたたびはじまるまでの時期は、辛くはありましたが、自分自身を見つめるための実りのある時期でした。
ひとりきりになった私には、ひとり在ることが、里板上の白墨のようにくっきりと見えたのです。
スピリチュアルな道において、もっともすばらしいことのひとつは、すべての状況は内面の探究のために使われるということです。
体験が辛ければ辛いほど、内面を見つめるための刺激になり、白昼夢にふけることもなくなります。
そういった状況のなかにあっては、考えごとにふけるのは危険です。
私は自分が覚醒の刃の上にいるのを感じていました。
ひとりぽっちで、一年を過ごし、自分の生がふたたび落ちついてきたと感じるようになってきたころ、私が愛と呼ぶ大いなる神秘がふたたび訪れました。
それは以前の恋とは違っていました。
私は片思いの愛というパターンを壊し、自分のする恋が、気づきの鋭さを増すためのすばらしい機会になっているのを知りました。
恋人といっしょにすごす一瞬一瞬が、ふたりがともにする唯一の瞬間のように感じられました。
「この人と永遠に」という幻想はもうありません。
ものごとはつねに変化していくことを、私は生から教えてもらったのですから。
この自覚によって、軽さと深みが生まれました。
いまでも嫉妬を感じるときはありますが、嫉妬によって自分を苦しめることはなくなりました。
マインドのなかで嫉妬をいつまでも噛みしめていたりはしません。
嫉妬の思いが浮かんできたら、私は自分にこう言えます―――
「こんにちは、これは嫉妬ね」
私は自分に訊ねます―――
「私はみじめになりたいの? それとも嫉妬を落としたいの?」。
愛する人といられるのがこの一瞬だけだとしたら、どうしてみじめなままでいたいでしょう。
彼は明日にもいなくなるかもしれないのですから。
私は今日を楽しみます。それは選択の問題です。
習慣に反して選択するという問題です。
そして唯一可能な選択は、この瞬間に在ることなのです」
「Oshoと過ごしたダイヤモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)