セックスと死 その3

時々、OSHOの言葉を紹介するときにヒヤヒヤすることがあります。
今回も、セックスについてここまで話していいの? っていう話なので、ここまで紹介していのかなぁ、と思うわけです。

OSHOは『私は宣言しよう。そしてこれを宣言するのは、歴史上で私がはじめてだ』と話していますが、これまで私が読んだどんな本や話でも、ここまで詳細に男性と女性のセックスのエネルギーの違いや、さらに女性のクリトリスのオーガズムと膣のオーガニズムのプロセスの違いと意義についてまで踏み込んで解説している話は、OSHOから以外には聞いたことがありません。友人からも警告を受けたのですが、あまりセックスのことを書くと、アメブロでは急に消されてしまったりすることがあるそうで、そういうケースをいくつか見聞きしているそうです。ですので、突然このブログが消えてなくなったら、そういうことが起こったと思ってください。

でも、OSHOとつきあうということは、常にそういう危険があります。
OSHOのキリスト教批判やアメリカ批判が熾烈を極めたので、キリスト教の原理主義でもあったレーガン政府によってアメリカを追放され、毒を盛られ放射能を浴びせられましたし、世界中の国から入国拒否され、インドでも暗殺未遂事件もありました。言論の自由が憲法に規定されているアメリカでも、そういうことが起こるわけで、歴史上真実を語るというのはまさに命がけでした。だから言論の自由が憲法で保障されているわけなのですが、今も真実を語ることは命がけであり、迫害が起こりうることなんだということが、OSHOの人生を見ていて思うことのひとつです。

中世においては、キリスト教の教会の教義に反する真実を語ることで魔女裁判がなされましたし、ガリレオが科学的真実を語ることでも宗教裁判がなされました。それは過去のことではなく、今も同じようなことが起こっています。OSHOが語っていることが真実かどうかは各人が実験して判断することでもあります。というのは、科学的で客観的な事実であれば、それは誰かが実験と検証によって証明すれば、誰にとっても普遍的な真実になるのですが、OSHOが語っている真実は、大学の哲学教授まで務めていたOSHOの観察と実験にもとづいた語っていることでもあるので、科学的な知識の裏付けをもって語っていますが、その内容は主観的な真実なので、各人が自分の体験や真実で実証して確かめる必要があります。

また、ここで科学的といっているのは、エネルギーの原理についてのものでもあるからです。
というのは、この世のすべての現象はエネルギー現象だということや、陰と陽(プラスとマイナス)のエネルギーの原理が作用することついては、今の科学でも実証されていますし、セックスエネルギーもそのエネルギーの原理にしたがって作用します。しかし、それをどのように体験するかは、各人の主観的な内面の状態なので、各人が自分の体験によって実証する必要があります。

男性には男性の体験があるでしょうし、女性には女性の体験があるでしょう。
かつ、主観的内面的なことについては個人差もあるので、それが普遍的に誰にでも当てはまるかどうかは知りません。というわけで、OSHOが語っていることが真実かどうかについては、みなさんの体験と判断にお任せします。おそらく、シュンニョがわざわざこのOSHOの全文を、ここに紹介しているということは、彼女の体験に照らしても真実なことだったのでしょう。OSHOは、この質問者がシュンニョであることを知らなかったにもかかわらず、この質問から、質問者が女性であること、そして長らくセックスをしていなかったのだろう、と推測していますが、そのこともシュンニョには図星であったようです。

ションニョからの質問に答えて、OSHOは語ります。

(「セックスと死」その3)

ところで、女性は男性より長生きするし、より健康で病気への抵抗力もあり、男性ほど簡単には狂わないし自殺もしない。
それはおそらく、女性の性エネルギーが陰性だからだ。

陽のエネルギーは活動の力だ。陰のエネルギーは吸収する力だ。
おそらくこの陰性の吸収するエネルギーのために、女性はより健康で、病気への抵抗力もあり、そして長生きするのだろう。生理学の発展が女性を月経から解放したなら、女性はさらに長生きし、さらに健康になるだろう。
女性は確実に男性よりも強くなれるだろう。

セックスと死が同時に想われるようになったなら、それは性エネルギーが――陽か陰のどちらかだが――蓄積されつつあるということだ。そして、陰のエネルギーの方が長く蓄えておける。

私はジャイナ教の僧呂と尼僧を観察してきた。
みずからの行において、もっとも誠実な者たちだろう。していることは馬鹿げているかもしれないが、彼らの誠実さには疑間の余地がない。尼僧たちは、 楽々と禁欲しているように見えた。
ところが僧呂たちはとても苦労している。
キリスト教の修道士や他宗教の僧呂も、やはり同じように苦労している。陰のエネルギーはより静かで、活動的なエネルギーが訪れるのを、ただ待っている。
自分が吸収できるようなエネルギーの訪れを待っているのだ。

だが、陰のエネルギー自体には活動的な力はない。
だから私は、女性の同性愛に反対するのだ。
それは愚かとしか言いようがない。

ふたつの陰のエネルギーがオーガズムに達しようとするとは、彼女たちはオーガズムに達したふりをするだけなのか、または、彼女たちがオーガズムだと思っているのは、クリトリスのオーガズムにすぎず、腟のオーガズムではないのだろう。クリトリスのオーガズムは、腔のオーガズムとは比較にならないほどちっぽけだ。
クリトリスのオーガズムは前戯の一種にすぎない。
それは腟のオーガズムの助けとはなるだろうが、腟のオーガズムのかわりにはなれない。愛の営みという、これほど身に迫った問題が暗闇に葬られたままでいたとは、まったく驚くべきことだ。

私は宣言しよう。
そしてこれを宣言するのは、歴史上で私が初めてだ。
クリトリスのオーガズムは、前戯としてはとても有益だ。
そう認めないことには心理学者も困るだろう。
生物学的には、クリトリスの用途などないからだ。

この事実について考えるのを避けるために、腟のオーガズムを否定して、オーガズムはクリトリスにしか起こらないと主張する心理学者もたくさんいる。男性のオーガズムは一瞬なので、その2、3秒というわずかな時間だけでは、腟のオーガズムを与えられない。

だが、前戯によってクリトリスのオーガズムが起こっていれば、それは腔のオーガズムが起こるような状況をもたらしてくれる。それは、すでにはじまっている。
クリトリスのオーガズムがプロセスのきっかけになったのだ。ところが男性は、クリトリスのオーガズムに関心がない。
男性のオーガズムは、腟との接触だけで簡単に起こるからだ。男性は自分のオーガズムにしか関心がない。だからそれが終わってしまうと、女性のことはまったく考えなくなる。

女性解放運動とともに女性の同性愛が広まりつつある。
それは、女性にクリトリスのオーガズムを 与えてくれるからだ。しかし、それは単なる前戯なのだから、そこには別の愚かしさがある。それは本の前書きだけ読むようなものだ。

あなたは本を読みそこなっている。
好きなだけ何度も何度も前書きを読む。
それなのにまったく本文は読んでいない。

女性がとても長いあいだ待っている状態でいると、彼女の吸収した陰のエネ ルギーが蓄積されてゆく。それが大量に蓄積されたなら、彼女は死を想うようになる。

そのような状態で愛を交わし、ほんとうに美しいオーガズムを味わったなら、死ぬときに起こることへの洞察が得られるからだ。そこには恐れるべきことはなにもない。壊れるものはなにもないのだから。
それはあなたの性の絶頂だ。

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)