私たちは、死に対するさまざまな思い込みと偏見の中に生きています。
死は未知なるものであり、神秘なものとして、ただ単に興味深い現象として見ることができません。
死は未知なるものなんだから、楽しいものと見ることもできるはずなのに、どちらかといえば死はできれば避けたいものであり、悲しむべき悲劇だという先入観があります。
地獄絵などを子供の時から見せられているせいか、死んだら閻魔さんに裁かれて、地獄の業火で焼かれたりするかもしれないと思ってしまったりします。
これまでの生前の自分の行いを考えれば、天国に行くより地獄に行きそうだと思うからなのでしょうか。
あるいは、死にあたっての別れの喪失感や、病気などで苦しんで死ぬ人たちを見て、死は苦しいもの、怖いものという観念が植え付けられるからでしょうか。
また、幼少期から両親や社会によって植え付けられた既成概念による条件付けともいえそうです。
仏教などでも地獄絵や地獄の話などが多くあり、白隠禅師はその地獄絵を子供のときに見て恐れおののき、それで修行に励み悟りを得たという話もあるぐらいです。
昨日のこのブログで紹介したマニーシャの「和尚との至高の瞬間」のなかに、Oshoのアシュラムで、あるサニヤシンが脳内出血で危篤になったというニュースが入ったときの様子が書かれてあります。
それはOshoが死に対して、どのように対応していたかの一つのエピソードでもあります。
私がOshoのコミューンで体験したことのうちでもっとも印象的だったことのひとつに、そこで人が亡くなったときのお葬式のありかたです。
そこでは一般に日本で考えられているような「お葬式」というようなものでは全くなく、お祝いなのです。どちらかといえばお祭りに近いエネルギーなのです。
それはとても美しく、自分が死ぬときには、このようなエネルギーの中で送り出してほしいと思わされるものです。
そのルーツの考え方がどこから来ているのかということが、このマニーシャの手記にある、サニヤシンがアシュラムでなくなったときの様子に書かれてあります。
このマニーシャの本は日記風に書かれてあり、マニーシャがそのときどきに体験したり、見聞きしたことが実況中継のように書かれてあります。
その脳内出血で危篤になったサニヤシン(ヴィパッサナ)は深い昏睡状態にあって、医師や看護婦を含むサニヤシンによって24時間看護されていました。
マニーシャは看護婦でもあったので、そのチームの中にもいたのでしょう。
ヴィパッサナが意識を失ってから一週間がたった日、彼女の友人の一人がOshoの講話を録音したテープを回して、彼女に聞かせていたところ、講話の終わりにOshoが「今日はこれで十分かね?」と言ったと同時に心電図が一直線になったときの様子が書かれてあります。
その瞬間、手を握りながら横にたっていた彼女の弟が、突然エネルギーが注ぎ込んで来るのを感じ、姉が肉体を去るときに彼女の手から彼の手へと駆け抜けていったかのような、思いがけない歓喜の奔流を感じ、彼女の弟は笑いながら、同時に泣き始めたりしたというのです。
ヴィパッサナの死はマニーシャが立ち会ったはじめてのサニヤシンの死であったのですが、彼女はそれまで看護婦として働いてきていたので、死につつある患者を看取ることや病院の殺菌消毒された無味乾燥な様子に慣れていました。
それがこのように一人のサニヤシンが死に、そしてその亡骸はコミューン内のホールの一つに、数百人の集まったサニヤシンたちのなかに、愛情を込めて花で飾られて安置されていたのです。
その様子はマニーシャにとって「なんと奇妙で、同時になんと素晴らしく、ふさわしく感じられる」ものでした。
マニーシャにとっても、Oshoがこの状況にどのように対応するかということは興味津々だったようです。
そのときの状況を次のように書いています。
「Oshoは今朝、私たちに話をすることになっており、彼が瞑想ホールに入って来るとき、私は自分が感じている何らかの動揺の兆候を彼の中にも半ば期待しながら、その顔をしげしげと見つめる。
『私たちのひとりが死のうとしているのを、彼はどんなふうに受け止めるのかしら?』
私は自分自身の受けた衝撃と、死とは災難、悲劇、誤りであるという自分の思い込みを彼の上に投影していた。
無意識のうちに、Oshoとともにある人々は、不死というマントに包まれていると想像していたので、私たちのうちの最初の死に直面し、何か間違ったことが起こってしまったかのように感じている。
Oshoは、ほかのあらゆることを受けとめるのと同様に、ユーモアを持ってこの出来事を受け止め、講話のはじめにヴィパサナにあてたジョークを放つ。
私たちの笑い声がおさまると、彼はこう付け加える。
『あなたがたのハートが沈み、悲しんでいるのを知っている。
それは自然なことだ。
だが、私はあなたがたが自然をほんの少し超えるのを助けたい。
なぜなら、こういう機会は稀だからだ。
こういうときは、非常に深く落ち込むこともできるし、
また非常に高く舞い上がることもできる。
落ち込む現象となる同じエネルギーが、
舞い上がる現象ともなり得る。
そのエネルギーは同じだ。
それはあなたがどう使うか、
どう変容するかにかかっている』
『今夜彼女を見送るとき、踊りなさい。
炎が彼女を包み始めたら、
その火のまわりで思い切り踊りなさい。
あなたの全エネルギーを踊りにしなさい。
歓喜の頂点に達するまで踊ってごらん。
あなた自身を完全に忘れなさい。
そして、あたかも彼女が生きているかのように彼女を見送りなさい。
彼女は生きている。
そして本当に踊ったなら、
あなたがたの多くは、
彼女の生き生きとした存在を感じるだろう』
死をどのように受け止めるかは、私たちしだいです。
Oshoのところでは、人が死んだ時に、どのようにそのエネルギーを使うのかということの多くの学びがありました。
マニーシャは、Oshoとともに長くいて、そのOshoのヴィジョンをもっとも多く体験してきている人のひとりです。
今の生を最大限に生き、死についての思い込みを解き放ちましょう。
マニーシャ_のライフワークはターミナルケアですが、彼女のライフワークは「OSHOサマサティプロジェクト」というWebページになっています。
日本語版はこちらから見ることができます。