マニーシャの悟りの体験

マニーシャは、あるとき、朝のOshoの講話を聞いているときに悟りの体験を得ます。

ひょっとして、瞑想していたり、Oshoの講話を聴いたり、読んでいたりしていて、そういう悟りを得てしまったようなときには参考になるかもしれないので、マニーシャの悟りの経験について少し書いておきたいと思います。

このマニーシャの「和尚との至高の瞬間」の本には、Oshoの瞑想などをしているときに起こるかもしれないような、いろんな瞑想の状態や体験について、ヒントになるようなことがいろいろと書かれてあります。

とはいえ、人それぞれ、いろんな悟りの状態や瞑想の状態があるので、これを先入観にはしないように気をつけてくださいね。

それにしてもマニーシャの体験は、私が禅の悟りの体験の逸話などで読んでいたものとは全く違ったものでした。

マニーシャはOshoの講話の間、頭痛がし、吐き気がして、マニーシャは最初はいつもの偏頭痛が起こったのではないかと思っていたようです。

Oshoの講話が終って立とうとしても立つごとができず、口も聞けず、ほとんど話すことができないような状態になっていたのです。

マニーシャは自分がふたつに引き裂かれているような感覚を感じ、自分の肉体が鉄道の駅で、自分自身はまるでその駅を出ていく列車のように、肉体から離れていく感じがして、何ともいえぬ恐怖に襲われます。

彼女の友人たちはそういう異常な様子の彼女を見て部屋に担ぎ込みます。

マニーシャは当時Oshoの部屋の二階に住んでいたのですが、起こっていることをOshoに知らせてほしいとそばにいた友人になんとか伝えますが、Oshoの名前さえ思い出せず「階下の、あの人に伝えて!」やっとの思いでいうのが精一杯でした。

夕方になると少し落ち着き、夜のダルシャンに会いに来るようにというOshoからのメッセージを受け取ります。

マニーシャがダルシャンに行くと、Oshoは愛情に満ちた様子でマニーシャを迎え、彼女はその日の朝の出来事について話しました。

「あなたの名前が思い出せなかったんです!」とOshoに向かってて叫ぶように言うと、Oshoはクスクス笑いながら、「初めて、あなたは私が誰なのか知ったというわけだ!」と言います。

そしてOshoは、マニーシャは小さな悟りを体験したのだが、マニーシャが高く舞い上がりすぎないように、それをミニと呼ぶのだと話します。

Oshoは話を続け、マニーシャの様子について次のように説明しました。

悟りについて興味のある人には興味深い話です。そして、もし万が一にもそういうことが起こったときには、参考になるでしょう。

それにしても、そういうことがマニーシャに起ころうとしていることについて、Oshoはすでに気づいていたと言うのだから、驚きです。

それは大きな衝撃のエネルギーだった。
 そして私は最初から何かが起ころうとしていることに気づいていた。

 あなたは、あるスペースにいた。
 それはほとんど、LSDを飲まずにLSDのトリップを体験したようなものだ。
 だからこそ、それはたいへん衝撃的だった。

 あなたがLSDを飲んだとき、
 あなたは自分が何をしたのかを知っている。
 あなたはそれが効いてくるのを待つ。

 だが、今回のことはあまりにも不意にやってきた。
 何の警告もなしにやってきた。
 あなたはそれを待っていたわけではなく、
 突然それはそこにあった。

 それは全身を掻き乱す。
 なぜなら、あなた自身とあなたの肉体の間に、
 ある距離が生まれ、古い繋がりが失われたからだ」

あなたは新しいスペースに入ったのだ。
 これからも、それは向こうからやって来るだろう。
 期待する必要も、切望する必要もない。
 そして、それがやって来たとき、恐れる必要もない

次の朝、マニーシャは机に向かって、彼女の仕事でもあるOshoの講話の原稿を編集しようとしても、文章を読んでいても、文末まで読む頃には文頭は頭から消えていて、再び読み直しても、同じことが起こり、編集などとても無理だということがわかります。

そこで、代わりに家事のような仕事ができないかと願い出て、掃除したり、ベッドを整えたりするような、すでに身についていて頭を使わないで済む仕事に変えてもらいました。

そのときのマニーシャの状態というのはとても興味深いです。

考えるべきことが何もないとき、頭の中にはまったく思考が存在せず、考えたいとき、思考は静かに頭の中をパレードするかのように横切っては消え、頭は空っぽな感じでした。

マニーシャは非常にふわっとした、拡張感を味わっている。興奮している感じも、高揚感もないし、至福といった感じさえなく、ただ、いまここに存在しているという感覚を経験します。

Oshoの庭を見渡せる自室のバルコニーに立ち、木々や、ツタ科の植物が鬱蒼と絡み合っているのを見つめても、花々の周囲に幻のような輝きがあるわけでもなく、一本の草の複雑な美がもたらす突然の啓示もなく、LSDを飲んだことのある人たちが語るような、木との神秘的な和合が起こるわけでもありません。

ただ、生まれて初めて心による内側の注釈なしに、ただ直接見ることを体験します。

直接体験することは、まったく驚異的だった。私と私か見ている物の間には、何も介在しない。私とすべてが、ただ在るがままに存在している。

後になれば、この体験を至福に満ちたものと説明できるだろうが、現時点では、それはただ広大さであり、沈黙であり、虚無である。

というものでした。

悟りというのは、無心であり、ノーマインドであり、沈黙の状態だというふうに言われますが、マニーシャは努力なくして、突然そのような状態に放り込まれたのでした。