Oshoの講話を聴くことは瞑想であり、それこそまさに瞑想のアートです。
その昔、仏陀のまわりにあつまり、仏陀の話を聴いた人たち。
それはまさにこのような集まりだったのではないか、ということを思い出させるようなOshoの講話のひとときです。
そのOshoの講話を聴くということはどういうことなのか?
マニーシャはこの時期、Oshoが講話で話す題材となる禅の話を、膨大なOshoの図書館の蔵書のなかから集めてきて、しかもOshoがその禅の話について話す前に、そのOshoの講話についての質問をOshoに提出しなければならないという、まさに禅公案のような難題をOshoから与えられていました。
この時期、Oshoとマニーシャは、禅でいうところの公案を与えられた師と弟子の関係のようなものです。
聞くところによると、最近の日本の禅寺での禅公案にはアンチョコがあって、その答えもあるんだという噂(本当かどうか知りません)を聞いて、驚きあきれたことがあります。
このOshoとマニーシャとのやりとりは、まさに目の前で繰り広げられているドラマでした。
とはいえ、そのマニーシャの内面のプロセスはこの本で明かされるまではわからないことでもありましたが、その話をここで読むことで、Oshoが講話のなかで、何を私たちにもたらそうとしていたかということが明らかになってきます。
このマニーシャシリーズの前に、シュンニョのシリーズ(「和尚とのダイヤモンドの日々」)を読んだ方は、この時期Oshoはアメリカで盛られたタリウムの毒に苦しめられていたということを思い出していただくと、そのような状況のなかで、Oshoはこれだけのことを私たちに残してくれていっている、ということの意味が分かるのではないかと思います。
マニーシャは書いています。
「禅シリーズを開始したときから、Oshoは毎回の講話の冒頭に私の名を呼んだ。
それから禅の逸話に入り、私たちに向かっていくらか話をしたあと「さて、マニーシャの禅のスートラは……」と言ったり、「マニーシャは、すばらしいスートラを持ってきた」とか、ある晩など「今宵の美味なる禅の夕餉に、マニーシャはこう尋ねている」などと言う。
これを聞くと、私は無上に愛されているのを感じる。 。
講話の冒頭で私の名が呼ばれるのを聞くことは、始めから終わりまで全面的に、いまここに在り続けるための大きな助けになった。
Oshoから一対一で話を聴いているかのように、講話の間ずっと気づきを持ち続けることができた。
しかし私は、くつろいだ状態で、いまここにいる必要があった。
2時間も張り詰めて注意力を働かせて座っていることなどできない。
私はぼうっとするのでもなく、無理矢理集中するのでもなく、彼の話に耳を傾ける方法を見出す。
講話の内容に耳を傾けたいか、内側の静寂を失うほど、頭を働かせたくなかった。
私は、言葉が自分を洗い流すような聴き方を発見する。
語られたことについては明瞭だが、遠い記憶だけが残る。
それはとても受け身の聞き方で、私の大部分は無限の沈黙の空となる。
一方、残りの部分で言葉を吸収する。
それはバランスを維持するアートだーー
沈黙を離れて思考のプロセスに巻き込まれるのでもなく、まったく我を忘れて私の内側と外側の静寂の大海に溺れてしまうのでもなく。
ある晩、Oshoは彼の言葉は誰よりも私の中により深く浸透するはずだと言う。
たしかに私は彼の言葉を聴き、私の存在のいくつもの層でその意味を感じ取り、言葉と言葉の間に存在する空間のもつ魔法に、波長を合わせることを学んでいる。
瞑想、内側に在ること、沈黙ーー実存的な禅ーーは、Oshoの言葉と言葉の狭間に存在する。私にとってもっとも強烈な瞬間は、彼が単刀直入に言葉を使い、私たちをその瞬間に沈降させるときだ
「”ごれ”があなたに宗教性の本質を、
その神秘、その美、その真実を与える……」
「この瞬間に、全面的に生きなさい。
迷うことなく。もはや存在しない過去を思うことも、
いまだ存在しない未来を空想することもなく。
あなたが手にしているのは、これ、
この瞬間の純粋性だけだ」。
今日の講話で。彼はこう言って、沈黙する」
マニーシャが昨夜日本に着きました。
成田空港から鎌倉に向かう車内で、今回の日本でのワークショップについて、話を少し聞きました。
Oshoバルドでは、その死のプロセスにおいても死ぬことのない、意識、観照者に気づいていくことのワークをしていくようです。
それはまさに瞑想のエッセンスでもあるので、そのエッセンスはもちろん日々の瞑想を深め、生きているときにおける日常で今ここに生きることの体験を深めていくことに役立つことはいうまでもありません。
そして次の週末のDoin Dying Differently では、実際に死に直面んしている人たちへの瞑想のガイドのテクニックなどにも踏み込んで、瞑想のテクニックを教えていくのだそうです。
とても楽しみなコースになりそうで、ワクワクしています。
このようにOshoの身近に長年いた人から生に瞑想の体験やガイドを受けていくのはとても貴重な機会です。