自由か死か

OSHO秘話ヒストリアシリーズ、第6話。

今回もOSHOのドライブネタでお送りします。

このシュンニョの記事を読んだ時に、映画の「イージーライダー」の最後の場面が思い浮かびました。

イージーライダーの二人がバイクを走らせていると、彼らに偏見を抱いていた地元のピックアップトラックに乗った男たちが、からかい半分で銃を向けて撃ちます。

すると、その玉がイージライダーに命中してしまって、彼らは死んでしまうのです。

その場面を残して映画が終ります。

それは単に映画だけの話ではなく、アメリカでは本当に起こっていた話なのだということが、このシュンニョの話を読んで理解しました。

信じられないことですが、OSHOもドライブの途中で同じような嫌がらせをしばしば受け、銃を向けられ、撃たれたりもしていたのです。

警官は、それらを見て見ぬ振りをしていたのです。

ションニョは書いています。

「OSHOは日に2回ドライブしていました。

ある日、ヴィヴェックが、ひどく動揺してドライブから戻ってきました。1台の車がOSHOの車を追いかけてきて、バンパーにぶつかりそうにまでなったというのです。

それはいつもぎょっとさせられることでしたが、それだけならよくあることでした。罵声を浴びせる2、3人のカウボーイ姿の男たちが乗ったピックアップトラックが、しばしばそうしたいやがらせをしてきたのです。彼らにとっては、OSHOの車を道路から追い落とすことが、最高におもしろい遊びでした。

でもその晩は、ラジニーシプーラムに近づいてきたところで、ふたりのサニヤシンの乗る車が通りかかったので、OSHOは彼らの車を止めて、助けを求めました。それまでOSHOにつきまとっていた男たちは、助けがあらわれたのを見ると、方向転換して逃げ出しました。

男は自宅の庭に車を乗り入れ停車すると、銃を手にして飛び出してきて、撃ちはじめました。
彼はあきらかに正気を失っていて「OSHOを殺ってやる」と叫んでいました。

保安官が呼ばれましたが、彼はただ見ているだけです。
「まだ、なんの犯罪も置かされていないから」と言うのです。

翌日の晩、OSHOはいつもと同じ時間、いつもと同じ道路でドライブに行こうとしました。
ヴィヴェックが同行を拒否したので、私が行くことにしました。

それでも私はOSHOを説得して、少なくとも違う道を行かせようとしました。例の狂人は、OSHOがどの時間にどこにあらわれるかを正確に知っているからです。

OSHOは説得に応じません。好きなところをドライブするのは彼の自由であり、自分の自由を放棄するぐらいなら撃たれた方がましだと言うのです。

そして彼は言いました。
「連中が私を撃ったとしても、それがなんだというんだね。それはオーケーではないか」

私は息をのみました。私にとってはまったくオーケーではありませんでした」

  「OSHOと過ごしたダイヤモンドの日々」
      https://oejbooks.com/products/dtl_6.html

いやぁ~、それはシュンニョんかぎらず、だれにとってもオーケーではないことですよね。

まったく、ほんとに、OSHOは何を考えているんだって思ってしまいます。

そんな気狂いのカウボーイに撃たれて殺されたんじゃ、あまりにも馬鹿げてますし、そういう連中から身を守るぐらいのことはして欲しいものです。

しかし、OSHOにとっては、自由というのはそれほど大切なもので,自分の命以上に守るべきものなんでしょう。
まさに、自由のためなら命なんてなんでもないのかもしれません。

でも、たかがドライブのために命までかけることなのか? と思ってしまいます。

しかしOSHOにとっては、いついかなることであろうと自由は守るに値するものなのでしょう。

OSHOにとって自由とは、まさに最高の価値なのです。

この自由の価値について、OSHOは次のように語っています。

この講話は、ときどきだれかがOSHOの夢を見て、眠っているあいだにOSHOが訪ねてきたに違いないと確信し、OSHOに質問し、OSHOが講話のなかで答えたものです。

OSHOは語ります。

「私のワークはそうしたこととはまったく違う。私はだれの生活にも介入したくない。そうでなければ、そういうことをしただろうし、実際に可能なことでもある。

人は自分の肉体を離れ、睡眠中の人に働きかけられる。だが、それはその人の自由を侵害することになる。私はどんな侵害にも反対だ。たとえそれがあなたがたのために有益であっても、私はそれに反対だ。

私にとっては自由が最高の価値なのだから。

私はありのままのあなたを尊敬する。
そしてその尊敬ゆえに、あなたはより多くのことが可能だというのだ。

だが、だからといって、あなたが変化しないことにはあなたを尊敬しないというわけではない。あなたが変化したならもっとあなたを尊敬するというわけでもない。

あなたが変化しようがしまいが、あなたがたが私の見方だろうが敵だろうが、私の敬意は変わらない。私はあなたの人間性を、あなたの英知を尊敬する。

• • •

あなたが無意識なとき、眠っているとき、私はあなたをじゃましたくない。
私のアプローチは純粋に、個としてのあなたへの敬意と、あなたの意識への敬意に基づいているからだ。

そして私には、あなたの意識への私の愛と敬意に対するとほうもない信頼がある──それがあなたを変えるだろうという信頼だ。

その変化はほんもので、全面的で、後戻りする可能性のまったくないものになるだろう」
    [The New Dawn]

「OSHOと過ごしたダイヤモンドの日々」
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このOSHOの、何ごとにも、たとえそれが「あなたがたのために有益であっても」「介入しない」という姿勢、「自由」を尊重し「信頼」するという姿勢は、いついかなる時にも一貫していて、OSHOを理解するキーワードでもあるようです。

その姿勢は私の理解を遥かに超えるものです。そのことを理解したのはこのシュンニョの本で、OSHOの行動の内実をを知ってからです。

それらの言葉は通常私たちが理解しているものとも違った、さらに深い意味を持っていることが、このシュンニョの手記にあらわれるOSHOの言動によって明らかにされていきます。

少なくともこのドライブの一件でわかるのは、OSHOにとっては自由は死よりも価値があるもののようだということです。たとえ、それがドライブのようなことであっても。

たかがドライブ、されどドライブ、とでもいうべきでしょうか。
ドライブの自由という、ふつうなら妥協してもいいように思えることでさえ、その一瞬一瞬に命をかけていたようです。

どんなこともおろそかにせず、まさにその一瞬一瞬にOSHOはトータルだったのです。

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