内側の世界と外側の世界との境界

私たちは「考える」ことで答えを得られると思っています。
しかし、頭で考えることでは答えをえることができない問題というのがあるように思います。

私が好きなOSHOの言葉に

「生とは問われるべき問題ではなく、生きられるべき神秘だ」

という言葉があります。

実存的な問題については、考えれば考えるほど迷路に入ってしまい、袋小路に入ってしまうように思われます。
それを生きることで会得するしかないことがあるように思われます。
それについて考えすぎると、出口がなく、気が変になってしまいます。
マインドのなかにはマインドからの出口はありません。
マインドから出るには、マインドを超えるしかないのです。

それがOSHOのいう瞑想です。
私の経験からすると、OSHOの講話は、それについて考えるものではなく、実際に試してみて、検証し、体験していくためのものです。
OSHOはそのためのヒントを与えてくれているのです。

シュンニョ(チェタナ)は書いています。

洗濯をしたりOSHOの部屋を掃除したりしながらも、私はいろいろな問題について考えたり、つい2、3時間前の講話についてもっと理解したいと努力したりしていました。

「私の内側の世界と外側の世界との境界は、どこにあるのでしょう?
外側で起こるいろいろなできごとは、私の視覚や他の感覚を通じて内側に入り、そして私の世界の一部になるように思えます。

だからそれは、内側に属しています。
ですがその一方で、もしも私の内側にあるほんとうのものがウィットネスであり、そしてウィットネスが普遍的なものならば、そこでふたたび内側と外側が逆転するかのようです」―――

私はこんな質問をしました。

『チェタナ、それでは気が変になってしまう!』とOSHOは言いました。
それはほんとうにそうでした。
私は砂丘や浜辺を歩きながら『内側のマスター』との対話を続けました。
たとえばこんなふうにです。

「私が存在しているのは、ただ私がそう思っているせいなのかもしれない!」
「思考が消えたら、私はいなくなるかもしれない!」

マインドはけっして真実を理解できない、
真実とはマインドをはるかに超えたもので、マインドはそのはるか下にあるものだから―――
OSHOはそんなふうに言っています。

それでも私は、一度は試みずにはいられなかったのです。
それは少なくとも、そうした努力に疲れ果て、神秘家の世界ではマインドは役立たずだと悟るためには必要でした。

マインドには内側の世界が理解できないと、OSHOが話すのを聞いたことはありました。
それでもそれは、私自身の理解に即したものではありませんでした。
自分の体験からそれを理解してはいなかったのです。
そこで私は、来る日も来る日も謎を解くことに夢中になり、自分を狂気に駆りたてたのです。

OSHOはつぎのような美しい物語を話してくれたことがあります。

「神秘家でもあったひとりの王が、すばらしい都市を建設した。
王はその都市に、ひとつの寺院を設けた。外側の壁は赤い石でできていて、内側の壁には無数の小さな鏡がはめられた。だから寺院のなかに入ると、無数の鏡に映しだされた自分の姿をみることになる。

あなたはひとりなのに、鏡に映ったあなたの数は数えきれない。
あるとき一匹の犬が寺院の中に迷いこみ、その夜のうちに死んだという。なかにはだれもいなかった。

守衛たちは、犬がなかに入ったまま扉の鍵をしめてしまった。
その犬はまわりにいる無数の犬たちに向って吠えた。
そしてあちこち飛びまわり、からだを壁に打ちつけた。
それでもまわりの犬たちは吠えるのをやめない。
・・・・・・
この哀れな犬が、どんな目にあったかわかるだろう。

一晩中吠えて、闘い、壁にからだを打ちつけて死んだ。
翌朝寺院の扉が開いたとき、人々はなかに犬の死体をみつけた。
寺院は犬の血にまみれていた。壁のあちこちに血の痕があった。

近所の人たちはこう言った。
『いったいなにが起こっているのか、一晩中不思議に思っていたんです。犬が吠えやまないものですから』

その犬は、まちがいなくインテリだった。
だから当然こう考えたのだろう。
『こんなにたくさんの犬がいる! どうしよう! 

私のほうは一匹だし、日も暮れている。
扉も閉まっている。そしてこんな大勢に囲まれてしまった。
・・・・・・
あいつらは私を殺すつもりなのだろう』
だが、この犬は自分で自分を殺したのだ。ほかの犬など一匹もいなかった

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)