セックスと死 その2

セックスというのは生命エネルギーの象徴です。

セックスから生命が誕生します。

ちょうどプラスとマイナスがあってエネルギーが流れるように、生(セックス)と死があって生命エネルギーが流れるのでしょう。

生と死についての理解と体験を深めるための「生と死の神秘に開くため」のワークショップが開催されます。

そのワークショップをリードするのは、OSHOの秘書を長年務めていたマニーシャです。

マニーシャについては、このシュンニョの「和尚と過ごしたダイヤモンドの日々」でも、時々名前が出てきますが、シュンニョが洗濯や身のまわりの世話をしていたのに対して、マニーシャはOSHOへの質問や資料などを整理したり、OSHOの図書館のケアをしたりしながら、ずっとOSHOの身近に過ごしていた女性です。
OSHOのことや、ヴィジョンを分かち合ってくれている人のひとりです。

ションニョからの質問に答えて、OSHOは語ります。

ただし、単一のエネルギーがふたつの場所において異なる働きを見せるというのも確実なことだ。

セックスは生のはじまりで、死は生の終わりだ。
だから、このふたつは単一のエネルギーの両端、単一のエネルギーの両極だ。

このふたつが無関係だということはありえない。

死とセックスというと、私はアフリカにいる、ある種のクモのことを連想する。
この種のクモにとって、死とセックスはとても近いところにある。

人間の場合、両者のあいだには70年、80年という距離がある。
ところがこの特殊なクモにかぎっては、両者のあいだに距離がない。

このクモの雄は、一生に一度だけ愛を交わす。
愛を交わし、そして雄がオーガズムに達すると、雌は雄を食べはじめる。

彼は陶酔しているので、食べられても気にしない。
彼のオーガズムが尽きるときには、彼の命も尽きている。

死とセックスはとても近いところにある……。
だが、近かろうが遠かろうが、両者は異なるエネルギーではない。

だから両者を同時に感じるときもあるのだ。
両者を同時に見られるというのはすばらしいことだ。
それは大いなる理解だ。

ふつう人々は、そんなふうには見られないのだから。
人々はほとんど盲目なので、死とセックスの関連を見ることは、けっしてない。

彼らが両者を関連づけられないのは、たぶん無意識の恐怖のせいだろう。
死とセックスを関連づけてしまったら、セックス自体が恐くなるかもしれないからだ。

それは生殖の使命を果たすうえでは危険なことになる。
生殖という見地からすると、死とセックスを関連づけないほうがいい。

男が首を切られるとき──今でもそんなことをする国があるのだが――奇妙なことが起こることが知られている。
男は首を切られた瞬間に射精する。例外なしにだ。

奇妙なことだ。
首を切られる瞬間というのは、射精にふさわしいときなのだろうか。
だがこれは、当人にも抑えられないことだ。

死が起こる瞬間、生が彼から離れる瞬間、性エネルギーも彼を離れるというのは自然なことだ。
これは全体的な現象の一部だ。
肉体に留まっている理由はなくなったのだ。

この質問は意義深い。
あなたは死のうとしているのではない。
あなたの性エネルギーが絶項に達しようとしているのだ。

だから、あなたは、死を感じるまでになっている。
性エネルギーを放出していたなら、そんなふうに感じるまでにはならなかっただろう。

この質問をした人はセックスをしていないはずだ。
エネルギーが蓄積され、ひじょうな強度に達しているので、死がひとりでに想起されるのだ。

あなたが意識的に死んだなら、その死は、あなたが生において味わったことがないような、大いなるオーガズムをもたらす。

和尚と過ごしたダイヤモンドの日々

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