OSHOの専任の歯科医にデバギートという人がいます。
OSHOの住んでる館には、彼が歯の治療を受けるための専用の部屋が設けられていたぐらいです。
OSHOが、その歯科のセッションの合間に話したことが3冊の本にもなったぐらいです。
彼が問わず語りに語った「狂人日記」
彼の子供時代を語った「ゴールデンチャイルドフッド」
彼が愛した100冊の本について語った「私が愛した本」の3冊です。
それほどOSHOは歯の治療を必要としていたようなのですが、この最後の時期には、治療が困難になり、多くの歯を抜かなければならなくなっていました。
そのため、OSHOの症状を解明するために、他の一般の医師にも意見を求めたところ、OSHOはアメリカでの拘置中に放射線を浴びせられていたことが判明したのでした。
OSHOは、そんな身体の状態にあっても、常に彼の弟子が意識的になるようにと働きかけていたのです。
OSHOが歯の治療を受けるときには、何人かの人たちが身近に付き添っていたようなのですが、そのなかにシュンニョとアナンドもいました。
ところが、二人のいつもなにかを要求しているマインド(頭のなかの思考)が、彼を悩ませるというのです。
それは彼女だけの問題ではなく、女性が長年の歴史のなかで培ってきたマインドでもあったのですが。
そして二人は、その歯の治療室から追い出されることになります。
それだけでは足りず、アシュラムの外に出るようにとまで。
その様子や経緯が、この本には詳細に語られていますが、それは単に彼女たちの問題ではなく、通常の私たちのマインドの状態でもあるということです。
私たちが頭のなかで考えていることや無意識というものは、それは頭のなかにあるだけではなく、波動として周囲にもふりまかれているということなのです。
そしてまた、ここに書かれてあるシュンニョのひとことにも驚かされました。
「OSHOが私になにかをしてほしいと言ったのは、それが初めてだったからです」
OSHOは、本当に人になにかを要求したり、押しつけたりすることがなかった人なのだということがこのひとことでよくわかります。
シュンニョは語ります。
“私たちは、サニヤシンではない一般の医師にもOSHOの病状についての意見を求めました。
OSHOのあごのレントダン写真を見せられた医師は、誰もが一致して、OSHOの骨と歯に見られる急激な脆化現象は、彼が放射線を浴びせられたとしか説明できないと言いました。
OSHOはアメリカでの拘置中に、放射線を浴びせられていたのです。
「もう私の世話をしないでいい」というメッセージを、私はOSHOから受け取りました。
「OSHOは、あなたに彼の洗濯をしてほしいそうだ」とアムリットは言いました。
私はこれに感動しました。
OSHOが私になにかをしてほしいと言ったのは、それが初めてだったからです。
「あなたはこれがしたいかね」と聞かれることはありましたが、彼の方から私になにかをしてほしいと言ったことはなかったのです。
私はもう歯科セッションには加わっていませんでした。
ですが、今度はアナンドが 「チェタナが出ていったと思ったら、あなたがはじめた」とOSHOから言われていました。
彼女も無意識に彼を悩ませていたのです。
今こうして書いていると、そのころOSHOが私に向けてしたことを、どうして私が理解できなかったのかわかりません。
私はまるで夢のなかにいるように、ただ反発していたのを覚えています。
どうして要点が見えなかったのか、今思うと不思議です。
「内側」を見るように、内側のさらに内側を、そして無意識の条件付けを見て、それを超えるように、OSHOは私を駆り立てていたのです。
私たちは何度も自己領解の瀬戸際までたどりつくのですが、そのたびにまた後戻りしてしまうと、OSHOが言うのを聞いたことがあります。
そのころの私は、まるで目の見えない人のように、開いている扉のそばをうろうろしていたのです。
ときには袖が扉の枠に触れたこともあったでしょう。
私は歯科セッションから追いだされるだけでは済みませんでした。
セッションの間はアシュラムの外にいてほしいとまで言われたのです。
アナンドも同じことを言われました。
セッションが終わるまでアシュラムの外に出なさいと言われた最初の日の午前中、アナンドと私は、川のそばにある友人の家に行きました。
それがいちばんだと思ったのです。
日焼け止めのクリームを塗って、その家の屋上で日光浴をしました。
アシュラムヘの帰り道、私は言いました。
「すできな朝の過ごし方よね、アナンド。毎日こうするつもりよ。最高ね ! 」
私は、さらにひんぱんにアシュラムの外に出るように言われるようになりました。
そうなると、どこにも行くあてがないこともありました。
ある日のことなど、アシュラムの裏、バンヤンの本が並ぶ通りの石畳に5時間も座っていました。
太陽を浴びながら午前中を過ごすことのよろこびなど消し飛んでしまいました。
ヒマラヤに逃げようかという思いが、始終私のマインドに入りこみました。
乞食のように始終あれこれをねだっている無意識の声を見つけようとする私の試みには、希望がないように感じられました。
これより深くは探れない、私にはもう理解できないと思いました。
それそも私は、OSHOはこれまで一度たりとも正当な理由なしに、なにかをしたことはないのを知っています。
彼は 一度も、彼自身の理解から来たものではない言葉を目にしたことはありませんでした。
私たちを目覚めさせようとする努力から来たものでもない言葉を口にしたことはありませんでした。
気づかぬうちに、OSHOのじゃまをしているのかもしれないと知りながら、彼の家に住みつづけていた私は、瞬間への気づきを深めないわけにはいきませんでした。
私が意識的になり、現瞬間にいられたなら、私の無意識が騒音を放つこともなくなるでしょうから。
洗濯部屋にいるときも、自昼夢にふけらないようとても注意していました。
白昼夢というのは無意識の活動状態だとわかっていたからです。
気づかぬうちに無意識がなにかをしでかさないよう、すべての瞬間を見守ろうとしていたのです”
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