セックスと死 その6

通常私たちは生と死は対立したものと考え、死を恐れ、忌み嫌い、避けるべきものとして考えがちです。

しかし、ソギャル ・ リンポチェの「チベットの生と死の書によるとチベット仏教の観点では私たちの存在は(1)生、(2)死にゆくことと死、(3)死後、(4)再生の4つの連続した現実(リアリティ)があるとしています。そしてそれらは4つのバルドとして知られています。(1)現世の自然なバルド、(2)死のプロセスの苦痛に満ちたバルド、(3)法性の光り輝くバルド、(4)カルマによってひきおこされる再生のバルドです。

よく知られている「チベットの死者の書「バルド・トドゥル」(Bardo Thodol)ではバルドというのは中間の状態を表し、“トドゥル”は耳で聞いて解脱するというような意味で、この経典は、死に臨む人の耳元で死の直前から、死後四十九日間にわたって、語り聞かされる物語なのです。日本では中有の期間で四十九日というのはここから来ているのでしょう。「バルド・トドゥル」では、人は死ぬと“バルド”という別の状態に入ってゆくのだと説明していますが、それはソギャル ・リンポチェののいう4つのバルドのうちの2つ目のバルドに該当します。

このソギャル ・リンポチェの「チベットの生と死の書」でのバルドの教えは、私たちが死に向けて準備した場合になにが起こり、準備していかなかった場合になにが起こるかということについて説かれています。そしてこの生の中で死を受け容れるのを拒んだら、生涯、そして死のときも、その後も、高い代償を支払いつづけることになるとしています。その拒絶がこの生を、そして今後のすべての生を、蝕むことになり、生を十全(トータル)に生きることをできなくする。だが、準備さえしていれば、生と死の両方にまたとない希望が生まれ、自由の可能性をもたらすと説いています。10月に来日するマニーシャのガイドする「OSHOバルド」では、単に死のプロセスとしてのバルドではなく、生のプロセスも含んだOSHOのビジョンによる、生と死のプロセスとしてのバルドを体験していきます。

OSHOはセックスと生と死の三つはまとめて理解されるべきだと語ります。 

なぜなら「生とは、セックスから死へと流れるエネルギーにほかならない」からです。4つのバルドの理解からすれば、セックスはある意味新しく誕生する命に再生のバルドをもたらすものでもあります。両親は再生する魂をこの世に導くために、瞑想的にセックスするという方法もあるぐらいです。そういう観点からすれば,セックスは新たな命をもたらす神聖なる営みともいえます。実際OSHOからそのような指導を受けて子供を産んだという人も知っています。それはともかく、セックスと生と死はひとつのエネルギーであり、そして生のバルド、死のバルド、そしてそれらの4つのバルドすべてに気づいている純粋な意識は死ぬこともなく生まれることもないものでもあるのです。セックスと生と死をひとつのエネルギーとして理解するとき、そして『あなたが死ぬとき――あなたが意識的に死ねばの話だが――あなたは肉体を忘れ、マインドを忘れる。意識だけになる…...』その「死」とはセックスのオーガニズムで起こるものと肉体の死で起こるものとの間に差がない、ということです。だから『そのような高みにおいて、人はかならず死を想う』ことにもなるのでしょう。

死を理解することを願う人はみな、セックスを理解しなればならない。逆もまたしかりだ』

死を無視してしまったら、生を理解できない。このふたつは完全に結びついている。セックスが始まりで、死が終わりだ』

OSHOはこのような文脈でセックスについての理解を語ってくれています。ところがセックスについてのことしか考えられない人たちやジャーナリズムが、そのような文脈が理解できずにOSHOをセックスグルとしか見えないようです。人は自分のレベルでしか、人を理解することができないのでしょう。だからキリストは磔にされ、ソクラテスは毒殺されてしまったのでしょう。

ションニョからの質問に答えて、OSHOは語ります。

(「セックスと死」その6)

どうしてそのような高みにおいて、人はかならず死を想うのだろう。

 それはあなたが、あなたの肉体を忘れ、あなたのマインドを忘れるからだ。
 あなたは純粋な意識となり、あなたのパートナーと溶け合う。
 それはとてもとても死に似ている。

あなたが死ぬとき――あなたが意識的に死ねばの話だが――あなたは肉体を忘れ、マインドを忘れる。意識だけになる……。そのとき突然、意識は全体に溶ける。この全体との合流は、どんなオーガズムで起こりうるものよりも一千万倍も美しい。それでもたしかに、このふたつは深いところでつながっている。ふたつはひとつだ。死を理解することを願う人はみな、セックスを理解しなればならない。逆もまたしかりだ。それなのに奇妙なことだ。セックスを理解しようと試みたフロイトやユングのような人たちは、死をひじょうに恐れていた。

セックスについての彼らの理解は、深いものにはなりえない。そして死について言うならば、だれもそれについて考えない。話題にする人もいない。死について話そうものなら、無作法な人だと思われてしまう。それを口にしてはいけない、死は無視されるべきものだというわけだ。だが、死を無視してしまったら、生を理解できない。このふたつは完全に結びついている。セックスが始まりで、死が終わりだ。生とは、このふたつのあいだにあるもの、セックスから死へと流れるエネルギーにほかならない。この三つはまとめて理解されるべきだ。その努力もされていないし、実験もされていない。とくに現代の世界ではそうだ。仏陀やマハー ヴィーラのあらわれる前、はるか昔の東洋の人々は、この現象をとてもくわしく調べたはずだ。そうでなければ、どうして頭蓋骨のネックレスをつけたシヴァの妻にシヴァの胸の上で踊らせる必要がある。

そして彼女の両手はどうだ。片手には切り落としたばかりの生首をつかみ、それから血をしたたらせている。もう片方には抜き身の刀だ。彼女は完全に狂っているように見える。これはもっとも深いオーガズムの状態を絵にしたものだ。女性をこのようにも描けるということだ。そして男性はただ女性の下に横たわり、女性は踊っている。彼女は彼の頭を切り落とすのかもしれないし、彼の胸の上で踊るだけで彼を死なせるのかもしれない。だが確実に言えることとして、死はそこにある。ほんとうに死ぬかどうかは別の問題だ。

たぶんこれがひとつの理由なのだろう。西洋の男性がつねに恐れているのは、これを無意識に感じているからなのだろう。彼らは愛を交わすときの体位をひとつに限った。男性が上になるのだ。そうすれば男性の側が支配できる。シヴァニがシヴァの胸の上でするように、女性が狂いきることはできなくなる。幾世紀もの昔から、女性は、からだを動かすことさえいけないと言われてきた。それはレデイのすることではない、娼婦だけがすることだというわけだ。女性はまるで死体のように横たわり、動かずにいなければならない。クリトリスのオーガズムも腟のオーガズムも味わえないのだが、彼女はレディだと思われることになる。それは名誉や体面の問題だ。女性は楽しむのを許されていない。女性は始めから終わりまで深刻そうにしていなければならない。からだを動かせるのは男性だけで、女性はそうしてはならない。

私の洞察によれば、それは恐怖のためだ。東洋で愛を交わすときに 一般的なのは、男性ではなく、 女性が上になる体位だ。男性が上になるというのは、まったくもって醜いことだ。彼のほうが重いし背も高い。きゃしゃな女性を押しつぶすような体位をわざわざ選んでいるわけだ。男性が上になるのをやめ、男性がそれほどからだを動かせないようにすることは、科学的に見ても正しいことだろう。 そうすれば、女性はもっと自由によろこびの声をあげたり、男性を叩いたり、男性に噛みついたり、男性の顔を引っかいたり、あるいはほかにも好きなことができる。彼女はシヴァニにならなければならない。彼女の手に刀はないが、爪がある。長く伸ばした爪がある。爪でいろいろなことができる。そして女性が上になれば、女性は早くなり、男性は遅くなる。そうなれば、ふたりいっしょにオーガズムの頂点に向かえる。

男性が上で女性が下では、いっしょに頂点に向かうのは不可能だ。ところが男性は、それを考慮してこなかった。男性は女性を利用したにすぎなかった 。古代の東洋の知恵のなかには、それとはまったく異なる態度が見られる。ウパニシャッドの時代には、女性は男性と同じだけ尊敬されていた。不平等の問題はなかった。女性はすべての経典を読んでいたし、重要な討論の場にも許されていた 。

最悪の日というのは 『女は男に劣るもので、男に、男の指示に従わなければならない』と男たちが決めつけた日だった。女性は教典を読むことも、生の重大な問題について論じることも許されなくなった。そして、あれこれについて女性側から感じられることについて尋ねるなど、問題外にされるようになった。女性というのは半分の側だ。こうした拒絶により、人は半分に割られ、精神分裂におちいった。いまこそ男性と女性とを、こころから 一体にするべきときだ。たがいの経験、たがいの理解、たがいの瞑想から、ひとつの全体がつくられるべきだ。それこそがほんものの人類の始まりになるだろう』

ちなみに、OSHOがセックスと死を超えていくことについて語っている動画はこちらから見ることができます。

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)