観照するということ

 瞑想とは何でしょうか?

 瞑想については、100人いれば、100通りの瞑想についてのイメージがあるでしょうし、経験があるでしょうし、偏見があるでしょう。

 瞑想について語るということは、それぞれの人の偏見を語るしかないように思います。

 なぜなら、瞑想はそもそも言葉にはできないものだし、その体験も人それぞれだし、世間でいわゆる瞑想と言われているものも千差万別だからです。

 日本では坐禅がポピュラーですが、数息観や摩訶止観、ヨーガ、最近ではティク・ナット・ハンの「マインドフルネス」やグーグルなどのIT企業で人気となっている「マインドフルネス」、ハート瞑想、その他あげればきりがないほどの瞑想法があります。

 OSHOもこれまでの講話の中で、古今東西の数百以上の瞑想法を紹介してきています。

 そのなかでOSHOは瞑想に共通する要素としていくつかあげていますが、ひとことでいえば「観照する」ことだと語っているのを聞いたことがあります。「気づいて観ている」「丘の上の観照者であること」というふうな言葉で語っているときもあります。

 ところが、この「観照する」ということは一筋縄ではいかず、最初はなかなかわからないものです。

 なぜなら、その経験がないとどうしても「マインドで観ている」にすぎないのに、それが「観照」だと思ってしまうからです。

 それはしかたがありません。なぜならそれまでマインドしか使った経験がなく、マインドで理解してしまうので、当然その「観照」もマインドが観照したつもりになってしまうのはしかないことです。

 ところが瞑想はマインドを超えたものなのです。

 OSHOが語っている「観照」とマインドで観照したつもりになっている観照とは違うのだ、ということに気づくまで数年かかりました。

 マニーシャはその違いを次のひとことで語っています。

 「私がその隔たりをつくりだすのではない。それは、もうそこにある

 「私がその隔たりをつくりだす」のがマインドによる観照であり、「それは、もうそこにある」ことに気づくのが「観照」です。

 「なぜなら、努力はできない。努力し始めたとたんに緊張してしまい、緊張は観照を不可能にするからだ」

 ここでマニーシャが語っているのは、マインドは努力して観照しようとして、そこに緊張をつくりだし、「観照」を不可能にしてしまうということです。

 マニーシャは、「和尚との至高の瞬間」のなかで、その「観照すること」について彼女の経験とプロセスを語ってくれています。

 瞑想の本質を理解するにはとても参考になるプロセスです。

 マニーシャは書いています。

 「観照とは、内側へと退き、行為したり感じたり考えたりするいっさいのことと、私自身との間の隔たりに気づいていることだ。

 私がその隔たりをつくりだすのではない。それは、もうそこにある。しかし、思考や感覚や行為と同化してしまう癖が身についているので、その隔たりを思い出すのは容易ではない。

 それは一種奇異なワークだ。なぜなら、努力はできない。努力し始めたとたんに緊張してしまい、緊張は観照を不可能にするからだ。

 私にとっては思考や感覚より、体の動きを観照するほうが容易だ。たとえば歯を磨くとき、普通それほど意識的にはやらない。

 それは習慣になっていて、機械的にできる。だがそうしたければ、自分の歯を磨くことに関わる手や囗のひとつひとつの動きを意識的に見つめ、観照することができる。

 そのとき私の意識は、行為によって乗っ取られたり、失われたりしない。私は観照者であり、その状況の主人なのだ。

感情に意識的であることは、さらに難しい。たとえば私か観照していないときに、ある状況が私の怒りを駆り立てたり、ある人が私の愛情を掻き立てれば、感情は私を乗っ取ってしまう。

 私は自分が感じていることと一体化してしまうので、激怒の中に自分を見失ったり、情熱にのめり込んでしまう。私はそれと同化してしまう。

 逆にもし私が、感情から距離を保ち続けることかできて、私は感情ではなく、それ(感情)を見ている者であるということを忘れなければ、同化しないでいられる。

 だからといって、感情を経験したり、表現したりしないということではない。たとえそうしても、私が観照者であることを覚えているときは、自分を見失ったり、圧倒されたりしない。

 私自身を忘れないでいるとき、私は自分の感情の奴隷ではなく主人となる。

最初の段階では体の動きを、第二段階では感覚を、第三段階では思考を観る。

 思考は、もっとも観ることの難しい活動だ。なぜならそれは、体の動きのように実体がないからだ。

 感情は ときとして外に表れるが、思考は姿を持って外側に表れることはない。

 しかし気づいているときは、空っぼで澄みきった意識の空を雲が横切るように、思考が通り過ぎるのを観ることができる。

 私はそれらを、人や車の流れを見るように観察する。とらわれるのではなく、私は思考の行き来する道端の芝の上に立ち、ただ観ている。

 観照しているとき、それに伴う独特の雰囲気があるのに気づく。胸が大きく拡がり、呼吸は 静かになり、安定する。そしてまるで、自分がどんな小さな動きや思考の介入によっても、粉々になってしまう脆い磁器になったような、極度に繊細な感覚かやってくる。

 観照しているときにこのスペースが現れるだけでなく、その過程が逆に起こることも実験してみて発見する。

 私がそのスペースをつくりだすとき、――基本的には、意識的にリラックスすることで生まれるが――観照が起こり始める。

 これについて質問すると、OSHOは私の発見は正しいと認める。観照の状態において起こる徴候を再生することで、観照の経験をもたらすことができる。私は正しい道を行っているとOSHOは言う。

和尚との至高の瞬間

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