スピリチュアリティとは豊かに生きること

人類のすべての過去は貧困を賞賛し
貧困をスピリチュアリティと同じものとして扱ってきた
それはまったく馬鹿げている

スピリチュアリティとは
人に起こり得ることのなかでも
もっとも偉大な豊かさだ

それはほかのすべての豊かさを包合し
ほかのいかなる豊かさにも敵対しない
ただ、あらゆる種類の貧困に反対する

人々は一方で貧困を賞賛し
他方で「貧しい人々に奉仕しなさい」と言う
奇妙ではないか !

貧困がそれはどスピリチュアルなことなら
もっともスピリチュアルなことは
すべての裕福な人々を貧困に陥れることだ
裕福な人々がスピリチュアルになれるように
貧困になる手助けをしなさい
何ゆえに貧しい人々を助ける必要がある?
彼らのスピリチェアリティを破壊したいのかね?

豊かに生きることは 世の中で唯一スピリチュアルなことだ

ゴールド•ナゲッツ

OSHOは、いわゆる常識的な思い込みに対して爆弾発言をすることはよくありますが、この言葉などもそうでしょう。

私たちは何かどこかで、精神的なことは物質的なことと相反するもののように考えがちです。

スピリチュアルな教えを説いている人はお金持ちであってはならないような雰囲気があり、清貧が尊ばれる風潮があります。

実際はキリスト教のローマ法王などはお金持ちのように思うのですが、イエス•キリストは次のような有名な言葉を残しています。

「富んでいる者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(ルカ18:25)

「針の穴」というと縫い針の針のことをイメージしてしまいます。

これをはじめて読んだとき、縫い針の針の穴をラクダが通るなんて、それだと絶対に不可能なことだと思いました。

縫い針の例えを持ち出すなんて、キリストは裁縫でもしていたんだろうか?と思ったこともあり、この例えについては何か不自然でわからない気がしていました。

なんて非現実な例えなんだろうって思っていたのですが、実はこれには別の説があるということを最近知りました。

というのは、エルサレムには「針の穴」という門があって、このイエスの「針の穴」というのはその小さな門のことだというのです。

古代の都市では、メインゲートは日が暮れると閉めてしまい特別の許可がない限り通れなくなり、門限を過ぎるとその大きなメインゲートの横の小さな門から出入りしなければなりませんでした。

その小さな門が「針の穴」と呼ばれていたというのです。

ラクダは背中にさまざまな荷物を背負っていますが、もし夕方遅くなってメインゲートが閉じられた後に商人が到着すると、その小さな「針の穴」の門を通らなければなりません。

そのとき、ラクダは荷物を全部降ろし、膝をつかせて這うようにして「針の穴」の門を抜けなければなりませんでした。

つまり背負っているすべてのものを脱ぎ捨て膝まづかなければならないことの例えとして、イエスはこの針の穴を通るラクダの話をした、というならつじつまが合います。

それならこのイエスの例えは、富んでいる人はその物質的な富を降ろして、イエスの足元にひざまずいて謙遜にならなければならない、ということの比喩だというふうに考えられます。

これだと「針の穴」の意味が現実的な例えとして理解できます。

ちなみにこの話の文脈はこうです。

ある若者がイエスに「永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と聞いたときの話です。

その若者の質問に答えてイエスは「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」と言ったのです。

すると彼は「どのいましめですか」と問い、イエスは『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』と答えました。

その若者はイエスに「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」と尋ねました。

するとイエスは彼に言ったのです。

「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。

その言葉を聞いて若者は悲しみながら立ち去りました。たくさんの資産を持っていたからです。

というのがこの話の筋書きです。

そこでイエスが弟子に語った言葉が、この有名なラクダと「針の穴」の話なのです。

「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。

あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、ラクダが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。

「天国に入る」のは死んでからのことなので「天に宝を持つ」ことなどできない。「死んだら、どんな財宝といえども持っていくことはできないよ」というなら話はわかります。

しかし、この若者のように、あらゆるいましめを守っているにもかかわらず、単にお金を持っているから天国に入れないって、なんだかそれってちょっとおかしいんじゃないか、って思うんですが、それがイエス•キリストの教え、そしてスピリチュアルな教えとして流布しました。

なにせ、今やキリスト教徒の人口は23億ほどで、世界人口の三分の一を占めているのですから。

アメリカや西洋に流布しているキリスト教に限らず、インドや日本でも仏教では僧は修行に専念して日々の生活は托鉢により、食事を恵んでもらいながらの生活でした。

そういう意味では仏教徒も清貧を尊ぶというのは同じことですが、イエスのようなスピリチュアルなお話ではなく、仏教の場合はもっと現実的な理由があります。

そもそもお釈迦さまは天国なんていう概念は持ち出しませんでしたし。

仏教が誕生したのは、お釈迦さま自身が生老病死の現実を見て、王の身分でありお金持ちであることに意味はないと悟って王家の身分を放棄し、瞑想をして悟りを得たという経緯がありました。

そのお釈迦さまの体験を語ったのが仏陀の教え、つまり仏教となりました。そういう意味では具体的、実践的な話です。

そしてお釈迦さまが教えを説いた当時は出家と在家とが区別されていて、出家した修行の身では自分では稼ぐことができず、清貧であることしかできず、それが伝統となったのです。

出家して精神的な探求をする僧侶にはお金を貯えたり経済活動をするという道はなかったのですから当然です。

しかし現代社会では、精神的な探求者といえども自分で職業を持って日々の生活を営む必要があります。

精神的な探求と経済的な営みの両方をすることが可能になっています。というか精神的な探求をするにしろ、経済的な生活と両立する必要があるのが現代人の生活です。誰も恵んでくれるわけではないのですから。

そのように時代背景や社会的環境が違っているのに、「貧困をスピリチュアリティと同じものとして扱う」ということの必然性がわかりません。

それはともかく、そもそもイエスのラクダと針の話には疑問があって、イマイチ説得力に欠けます。

先ほどのイエスのお話に戻ると、イエスの話を聞いて、弟子たちは非常に驚いてイエスに聞きました。

「では、だれが救われることができるんですか?」と

そこでイエスが弟子たちを見つめて言ったのです。

「人にはそれはできないが、神にはなんでもできないことはない」。

そのとき、ペテロがイエスに答えて言いました。

「わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。

そこでイエスは彼らに言いました。

「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」

なんだかこれって、ちょっとおかしいんじゃないか、って思うのは私だけでしょうか?

だって、いましめはすべて守っているのに、お金持ちになった若者は救いようがなくて、すべてを捨ててイエスについていったら、世間で稼ぐ以上の何倍ものご褒美がもらえて「永遠の生命」までが手に入るっていうのですから。

それにペテロってなんだか計算高い気がします。

だって、お金やいっさいのものを捨てた代わりに、その見返りとしての報酬を期待しているわけですから。

計算高いという意味では、イエスに質問したお金持ちの若者と同じじゃないの?って思ってしまいます。

それなのにどうしてお金持ちの若者は救いようがなく、自分についてきたらそれ以上のご褒美がもらえるよって、なんだか不公平な気がします。

信ずるものは救われるっていうことなんでしょうけど。

それはともかく、このイエスの教えがあるからなのか、あるいはまたアメリカの税制も関係しているのでしょうけど、アメリカなどでは寄付の文化があります。

ビル•ゲイツにしろ、ウォーレン•バフェッとにしろ、超お金持ちの人たちも私財を投げ打って寄付し、慈善事業に励んでいます。

ウォーレン•バフェットに至っては、そのほとんどの私財をビル•ゲイツの財算に寄付してしまったようです。

ビル•ゲイツなどは、お金持ちになるためにかなりえげつないこともしてきているので、その罪滅ぼしという意味もあるんでしょうか?

それはともかく、お金持ちの人たちは、その後スピリチュアルに目覚めて、どんなに寄付をして慈善事業をしたとしても、私たちから見れば超リッチであることには変わりないので、問題ありません。

問題はもともとがスピリチュアルなものを求めている人です。

スピリチュアルなものを求める人は、お金を稼いだり、お金を持つということに心理的抵抗を持ってしまっていることが多いようです。何かお金を稼ぐことは卑しく、悪いことのように思ってしまっています。

お金を稼いでいる人たちは悪いことをして稼いでいるんだとか、お金に対するさまざまなネガティブな思い込みや信念を持っています。

このOSHOの言葉は、そういう「スピリチュアル=貧しい」という思い込みや信じ込みに対する爆弾発言ともいえるでしょう。

OSHOは「ゾルバ•ザ•ブッダ」というヴィジョンを語っています。

「ゾルバ•ザ•ブッダ」というのは、「ゾルバ」とはアンソニー•クィーンが主役の映画にもなって有名になりましたが、ギリシャの作家ニコス・カザンザキスの小説「その男ゾルバ」というギリシャの享楽主義的な男の物語ですが、それと「仏陀」の精神性とを融合するというヴィジョンです。

スピリチュアリティ(精神性)と物質的豊かさとの融合。

意識の多重構造マップ(サークル•オブ•ライフ)の図によって説明すると、これまでのスピリチュアルとは内なる層を生きることで、物質的な享楽主義は外なる層を生きることでした。

豊かに生きることは 世の中で唯一スピリチュアルなことだ」ということの意味は、その内なる層と外側の層を同時に豊かに生きるということがスピリチュアルだということになるでしょう。

   意識の多重構造マップ(サークル•オブ•ライフ)

意識の多重構造マップ

OSHOが語る「ゾルバ•ザ•ブッダ」とは「その内側の層と外側の層を同時に豊かに生きる道」です。

その両方を可能にするのが「ハート瞑想」です。

ちなみに、「永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と質問した若者の問いに対してOSHOならどのように答えたでしょうか?

OSHOは「永遠の生命」について次のように語っています。

意識的な人は身体の中で生き、身体を愛し、身体を祝うが、彼は身体ではない。

彼は自分の内側に、あらゆる死の後も存続できるものがあることを知っている。

永遠で、ときが破壊できぬものがあることを知っている。

彼は瞑想や愛や祈りを通して、それを感じるに至った。

ひとたび自分自身を意識として感じはじめたら、あなたは完全に違う世界に住んでいる。

すると何も急ぐことはないーー意識は永遠であるからだ。

OSHOなら、ラクダと「針の穴」の話ではなく、瞑想や愛や祈りを通して、それを知る道を説いたでしょう。

外側で豊かに生きることは問題ではなく、さらに内なる次元での豊かさも求めなさい、と。

それが世の中で唯一スピリチュアルなことだ、と。

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