マスターと教師の違い

今回は「マスターと教師の違い」ということについてのOshoの言葉をご紹介します。

Oshoは大学の哲学教授として、
教師の経験をしてきていますが、
1970年代前半より弟子をとり、
マスターとして活動していました。

禅師は禅のマスターであり、
禅ティーチャーとは呼ばれません。

それではマスターと教師との違いはなんでしょうか?

その違いについて、Oshoは次のように語っています。

教師の人がいたら、ごめんなさい、なんですが、
言わんとする本質を読み取っていただければと思います。

要するに、焦点が教義や教えの方にあるか、個人にあるかの違いです。

Oshoは語ります。

教師は死んでいる
教師とは死んだ教えを語る人だ
教師はあなたがたのことはかまわない
「あなた」はどうでもいい

彼には教えることがある
だからつづける
彼が焦点を合わせているのは
教えることであって
あまり「あなた」に合わせているのではない
あまりどころか全然合わせていない

教師とは気狂いだ
教えの方が大事なのだ
教えは人間のためにあるのではなく
人間が教えるために 
教義のために存在している

しかしマスターにとっては
教えはオモチャでしかない

教義は
もしそれが助けになるものならば善いが、
もし役に立たないものだったら悪い

そして教義は
助けになるときとならないときがある
ある人に取っては橋となっても
ある人たちにとっては障害になる
人こそ大事だ

マスターにとっては
人こそすべてを測る物差しだ

個人 個がーー。
人というより「人間」が
人類ではなく「あなた」が大事なのだ

あなたの全面的な個人性
あなたのユニークな個性がだ

マスターの言うことは何であれ
一人のひとに向かって語りかけられる

それは手紙と同じだ
それから標準を引き出そうとしても無理だ
それを一般化することはできない

    「あなたが死ぬまでは」より
      

この話は、単にマスターと教師との違いについてではなく、
私たちがどのように教えを受け取り、
教義を受け取るのかということにも関わってきます。

Oshoが、宗教をはじめとする、
ありとあらゆる教義や教えに対する信じ込みを破壊するのは、
私たち個人がそれらの教義や教えのために犠牲になっている現状があるからです。

その典型が宗教戦争です。
宗教の教義のために多くの人々が争い、
自らの人生を台無しにし、
命を落としています。

マスターとは、私たち自身です。

私たち自身が、自分のマスターであることができれば、
それらの教義や教えに犠牲になることなく、
それらを自分自身の成長のために使っていくことができます。

Oshoは、そのために語ってくれています。

仏陀は「自灯明 法灯明」という言葉を残しています。

自灯明とは自分をマスターとするということでもあります。

「無門関」という禅公案に、
瑞巌和尚は、毎日自ら「主人公」と呼びかけ、
また自ら「はい」と答えていたという話がありますが、
これも自分をマスターとするひとつの方法なのでしょう。

自分をマスターとすることができて、
はじめて法を灯明とすることもできるのだと思います。

なぜなら、灯明は自分の歩む道先をてらす光であり、
自分が歩む道があってこその灯明ですから。

Oshoの言葉も、自らの道を歩むための灯明としていただければと思います。