このOSHOブログでは、OSHOの言葉やユーチューブ等を紹介していますが、OSHOについて語ることは、どんな言葉も無益であり、それらはすべて役に立たないし、無意味なものです。
そういうことを知りながら、こういうブログを立ち上げて、OSHOのことを紹介しているなんて、自分はいったい何をしているんだと思いますが、今のところ、他に紹介するすべがないのでそうしています。
実際はOSHOのことを本当に知りたければ、OSHOに自分で出会ってもらうしかないわけで、その機会の提供がこのブログの役割で、それ以上でも以下でもありません。
このブログを読んでOSHOを理解することはできませんので、念のため。
今回は、そのことをOSHO自らが語ってくれていますので、そのOSHOの言葉を紹介します。
「宗教とは革命だ」
とOSHOは言います。
その革命を自らの内に起こした人が「宗教的な人」です。
そして、その「宗教的な人」とはOSHO のことでもあります。
OSHOは語ります。
宗教とは革命だ
すでに存在しているものに服従することではないし
また知的に獲得する信念でもない
それはあなたがたの存在が根こそぎ転換することだ
でも、そもそもここでいう「宗教」とは何でしょう?
OSHOは語ります。
では「宗教」とはなんだろう?
宗教とは「あなた」は失われ、
大いなる<実在>だけが在るという
大洋的な広大な感覚だ
それは死と復活だ
今あるあなたは死に
全面的に新しいあなたが復活する
古きものの死のなかから
まったく新しい何かが生じる
古きものの墓の上に
何かが芽生えて新しい花を咲かせる
宗教とは内なる革命 内なる突然変異だ
今回の「あなたが死ぬまでは」で話されるスーフィーの逸話は「宗教的な人」についてです。
それでは、OSHO によると、「宗教的な人」とはどのような人のことをいうのでしょうか?
OSHOは語ります。
宗教的な人はきまって誤解される
誤解されないとしたら
その人は宗教的な人ではない
人間は<生>に対して
非宗教的な姿勢をとりながら生きている
宗派的であっても 宗教的ではまったくない
だから宗教的な人はよそ者だ
あなたがたがその人について語ることは
なんであれまちがいだ
なぜならあなたがた自身がまちがっているからだ
それに憶えておくがいい
その人についてあなたがたが何を言おうと
──たとえその人に好意的なことを言っても
それが正しいとはかぎらない
好意的であろうが敵対していようが関係ない──
どんなことを言おうと
あなたがた自身が宗教的な意識にならない限り
それはまちがっている
そうなるまでは あなたがたがその人に表す
崇敬の念は偽りだし 非難もまた偽りだ
その人のことを賢人だと考えたとしても誤解だし
罪人だとみなしても またまた誤解になる
したがって 憶えておくべき第一のことはこれだ
「あなた」が正しくならないかぎり
何を言おうと 何をしようと どのように在ろうと
それはまちがっているということだ
宗教的な人というのはとてつもない現象
なんとも不可思議な現象だ
あなたがたはその人について語るための言語がない
その人に関してはどんな言葉も無益だ
あなたがたの使う言語は
すべて役に立たないし無意味になる
というのも
宗教的な人が宗教的であるのは
あらゆる二元対立を超えているからであるのに
言語自体は二元性の内側に存在するものだからだ
もしその人を善い人だと言うなら
あなたはまちがっている
悪い人でもあるからだ
が 悪いと言ってもこもまたまちがい
善い人でもあるからだ
そうなると厄介なことになる
あなたがたは善人がどうしてまた悪人でもあるのか
理解に苦しむだろう
あなたがたに知覚できるのは全体の一部だけ
残りの部分は必然的に逆になる
そうであらねばならない
今回で「あなたが死ぬまでは」の講話シリーズが終ります。
そこでOSHO から、次の最後の言葉で締めくくってもらいましょう。
OSHOは語ります。
大事なことはこれだ
あなたの内部に宗教的意識が生まれ
覚者の境地を
<覚醒>の光を受胎する時には
あなたは自分の中に<覚醒>を子供のとして宿す
そしてあなたは死ぬ
両方が生きることはできない
これこそ この講話シリーズのメッセージのすべてだ!
「あなたが死ぬまでは」何ひとつ可能ではない
「あなたが死ぬまでは」
第十章 バラはバラはバラ
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