クレタ島のOSHO

ワールドツアーの最初の地はギリシャのクレタ島でした。

OSHOは到着の翌日から講話を始めました。そこでの講話は「Socrates Poisoned Again After 25 Centuries」という本になって出版されています。

25世紀後に再び毒を盛られたソクラテスというタイトルです。

なぜなら、ここでOSHOは子供の教育やティーンエイジャーの問題について報道関係者などからたくさんの質問を受けて、それに答えて話しました。

しかしOSHOが講話していることを知ったクレタ島の大司教が、OSHOが滞在している「別荘を爆破して火を放ち、ひとり残らず焼き殺してやる」という発言にまでエスカレートし、結局OSHOは「若者を堕落させようとした」という罪で逮捕されることになるのです。

これは、まさに25世紀前にソクラテスが問われたのと同じ罪です。
いったい世界はどうなっているのでしょう? と思ってしまいます。
イエスが十字架に磔になった25世紀後にアメリカの不当な裁判で磔にされ、毒を盛られたあげくに、このさわぎです。

人類は精神面ではまったくといっていいぐらい進歩していないと言わざるを得ないのではないかと思ってしまいます。
OSHOの滞在したクレタ島の別荘地は美しい場所にありました。透き通るように透明なブルーの海が見渡せる崖の上に立っていました。

私は、たまたま偶然にそのOSHOの講和していた別荘を訪れ、OSHOが講和していた木の下にまで行って、しばらくその場にたたずんだことがあります。

それはオーラソーマのコースがクレタ島で開催されたときに招待されて訪れたホテルの隣が、まさにそのOSHOが滞在していた別荘だったのです。

一緒にコースに参加していたサニヤシンから「隣にOSHOが滞在していた別荘があるらしいのでいっしょに見に行ってみないか」と誘われて数人で見に行ったところ、そこにはOSHOのクレタ島の講話のビデオで見たのとまさに同じ風景がありました。

その友人たちと門の外からその庭と建物を眺めていると、その家から女性が出てきて「あなたたちサニヤシン?」と聞くので、「はい、そうです」と答えると、「庭に入って、見ていってもいいわよ」と声をかけてくれました。

この家の持ち主らしいので「ここにOSHOが滞在したのですよね?」と聞くと、「そうよ。私はそのときはここにいなかったんだけれども、友人が貸してくれというので貸したんだけれども、OSHOが泊まっているなんて知らなかったわ」ということでした。

ここは別荘地として利用しているとのことでした。私たちにはとても気さくに対応してくれて、OSHOが講和していた庭に落ちていたケラブの樹の種をひろって、お土産にもらってきました。

私たちが滞在していたホテルの裏も崖になっていて、階段を下りると岩場があり、そこで私は毎朝セミナーが始まる前に素っ裸になってひと泳ぎしていたのです。

ちょうどそこから見上げると、切り立った崖の上に邸宅が見えていて、海からその家に続く急な階段がありました。そこがまさにOSHOが滞在していた家だったのです。
そこにはまさに、ションニョが裸になって泳いでいた小さな入り江と同じ風景がありました。
私もその同じ海で泳いでいたのでした。

そしてここに登場してくるカヴィーシャ、デヴィッド、ジョン、アヴィルババという人たちはのちにセドナにOSHOアカデミーを設立し、OSHOのミステリースクールを設立していた人たちです。

私は、まだ日本にオーラソーマが広がる前に、そのOSHOアカデミーでオーラソーマのコースを受講するためのセドナへのツアーなどを主催していたりしていたので、そのときにいろいろとお世話になったおなじみの人たちです。

ちなみにOSHOの秘書をしているハシヤは誰もが知っている有名な映画のプロデューサーの元奥さんで、ハリウッドの監督やプロデューサー、有名スターなど知らない人がいないぐらいの人なので、そういう人たちがOSHOのワールドツアーをサポートし、アレンジしていたのです。

マーロン・ブランドの所有する島がOSHOの住まいとして提案されていた、というのも、そういうところからでしょう。懐かしい場面と名前に触発されて、つい前置きが長くなってしまいました。

シュンニョは書いています。

2月のなかばでした。
エーゲ海の水は冷たいけれど、肌に気持ちよく感じられました。
私は裸になって岩に囲まれた小さな入り江で泳ぎました。
水は深く、透きとおっていて、波がゆったりと岩礁に打ちつけてはしぶきをあげました。
太陽は輝いています。見上げると切り立った崖の一角に邸宅があり、そこまでジグザグの石段がつづいていました。

OSHO はその邸宅の最上階の部屋に滞在していました。
ガラス窓がぐるりとはまった彼の居間からは、海とまわりの崖が見渡せます。
彼の寝室は家の裏手にあり、ほら穴のように暗い部屋でした。

この時間、彼は昼寝をしているはずです。
居間と寝室の中間にある浴室は、マ・アムリットがOSHO のために、いろいろな工夫をこらして改装してありました。

この別荘は、彼女が友達の映画監督、ニコラス・クンドロスから一ヶ月のあいだ借りたものでした。

私が滞在しOSHO の洗濯をする部屋は崖の中腹にあり、白い半円形のバルコニーがついていました。
私の部屋の上には、ハリウッド出身の友人たちがいます。

カヴィーシャとデイビッド──このふたりは、まるで世のはじめからの恋人どうしみたいでした。
ジョンとケンドラーーケンドラは、とても美しいブロンドの女性で、子供のころからのサニヤシンです。

それにアヴィルバヴァ──アメリカのテネシー出身の億万長者です。
男たちが彼女を愛するのはお金のためではないかと彼女が悩んでいたとき、OSHO は彼女にお金を自分の一部として認めるように言いました。
アヴィルバヴァは美しい女性であるだけではなく、お金があって美しい女性だと言ったのです。

「あなたがたが私を愛するのは、私が光明を得ているからにすぎないのかもしれないと、私が悩んだりするとおもうかね?」とOSHO は言いました。

彼らハリウッド出身のサニヤシンたちは、OSHO の住まいとして提案された太平洋の島から帰ってきたばかりでした。それはマーロン・ブランドの所有する島でしたが、結局は使えないことがわかりました。
少し前のハリケーンで大きな被害を受けていたからです。

私たちの数は増えつつありました。
美しいチリ人のサニヤシン家族(両親に娘と息子の4人でした)がたまたまそこにいました。OSHO がいることを知らずに、偶然ラジニーシプーラムからやってきていたのです。
彼らは家事を手伝ってくれました。

ほかにもおおぜいのサニヤシンたちが訪れて、家事を手伝ったり、世界中から訪れてきた報道関係者の相手をしたりしていました。

世界各国から雑誌記者や新聞記者が派遣されてきていました。
ドイツ、オランダ、アメリカ、イタリア、オーストラリアからはテレビ局の撮影班がきていました。

OSHO は到着の翌日から講話を始めました。
二、三日後には、500人ほどのサニヤシンがアメリカやヨーロッパからやってきました。

OSHO は中庭にあるケラブの樹の下に座ります。
ミュージシャンたちは石畳の中庭に座り、彼がやってくるときと立ち上がるときに音楽を奏でます。
ヴィヴェックと踊るOSHO を見て、だれもが驚きと喜びの声をあげました。

ヴィヴェックは楽しそうにOSHO のまわりを跳ねまわります。
ふたりは近づいたり離れたりして踊りました。
そしてふたりはしじゅう笑い、踊りながら石段を昇っていき、オークの扉を通って邸宅のなかに消えていきました。

春の嵐が吹き荒れる日には、私たちは一階にある大きな部屋で座りました。
部屋は大きかったけれどもぎゅうぎゅう詰めになり、入りきれなかった人たちは階段や窓の敷居に座りました。

OSHO は1日に2回の講話によって、弟子たちや報道関係者からの質問に答えました。
それはまるで、人々が賢者を探し求め、知恵のある助言を得ようとした過去の時代が再現されたようでした

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)