脳とマインドと意識(気づき)との違いやそれらの関係については、いろいろな説があります。
そもそも人間の意識が脳から生じるのか? という問題もあります。
マインドについても、それらは脳からのみ生じるのかどうか、という問題があります。
それらがすべて脳から生じるのであれば、人間の死とともにすべては無に帰することになります。
そうであれば、輪廻転生ということもありえません。
それは人間の魂を認めるのかどうかという話とも関係があります。
それらが物質的な現象にすぎないのか、物質現象とした場合に、それらをすべて解明できるのか、あるいはそもそも物質(脳)を超える存在なのか。
「心は量子で語れるか」という本があります。
ホーキングを超える天才と言われるロジャー・ペンローズによるもので、量子力学は人間の意識を語れるかについて考察した本で、数学の立場から人間の思考や意識の特色について論じられています。
ロジャー・ペンローズはこの本で、彼の量子論や宇宙論によって、人間の魂について解明しようと試みています。
人間の意識について、そもそも科学的に説明するという立場から考えるべきだろうかという議論があるようですが、ロジャー・ペンローズは大いにそうすべきだという考えで、とりわけ物質的世界と精神世界を結ぶ矢印について真剣に取り組んでいる数理物理学者です。
意識とは何かということについての定義は定まっていませんが、ロジャー・ペンローズはアウェアネス(気づき)について4つの立場があると説明しています。
1)思考はすべて計算できる。従って意識的アウェアネスも計算によって引き起こされる
2)アウェアネスは脳の物質的活動によるもので、計算によってシュミレートできる。
3)適切な脳の物質的活動がアウェアネスを引き起こすが、その物質的活動は計算によってはシュミレートできない
4)アウェアネスは、物質や計算や他のどんな科学的用語を持っても説明できない。
ロジャー・ペンローズはこの中で3)の立場を支持しています。
それでは、OSHOは脳とマインドと意識について、どのように考えているのでしょうか?
OSHOによると、マインドは物質としての脳がなくても波動として、脳とは別に存在しうる。
つまり、それが輪廻転生しうるということになります。
そしてそのマインドは条件付けとなって、意識にかぶさる層となり、そのマインドの色眼鏡を通して,この世界を見ているのだと言います。
シュンニョは語ります。
OSHOがつぎのように話すのを聞いたこともあります。
「この違いについて理解しなさい・・・
脳とマインドとの違いだ。
脳はからだの一部だ。
子供はみな新しい脳をもって生まれてくる。
だが新しいマインドをもってではない。
マインドとは、意識をとりまく条件付けの層だ。
あなたはそれを覚えていない。
だからそれには断絶がある。
ひとつひとつの生において、人が死ねば脳も死ぬ。
ところがマインドは、脳から解き放たれ、意識にかぶさる層となる。
それは物質ではなく、ある種の波動だ。
だから私たちの意識には、何千もの層がかぶさっている」
『The Path of the Mystic』
「あなたは、ありのままの世界を見ているのではない。
あなたはマインドがあなたにしむけるようなかたちで世界を見ている。
これは、全世界に見られる状況だ。
各民族はそれぞれ異なる条件付けを受けている。
そして、マインドとは条件付けにほかならない」
『The Transmission of the Lamp』
私(シュンニョ)の理解では、マインドとは社会や家族から与えられたものです。
たとえばあなたが子供時代から信じるように言われてきた宗教がそうです。
民族、国家、階級、道徳などもそうです。
こうしたすべての条件付けは、あなたが真の個人として行動するのを妨げています。
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)