Oshoの講話を聴いていると、どうやら今まで愛と思っていたことは、そうではないらしいということがわかってきます。
「愛は惜しみなく奪う」という有島武郎の小説がありますが、これなどはまさに正反対。
愛していると嫉妬する、というようなことを聞いたりしますが、これもOshoに言わせればナンセンス。
また、執着することも愛ではありません。
執着は肉体的なセックスに付随するもので、愛とは関係ないようです。
「セックスから超意識へ」というOshoの本があります。
6百冊以上に及ぶOshoの本のタイトルで「セックス」というタイトルがついているのは、この本ぐらいです。
そかし、多くの人がOshoはセックスについて多くを語っているように思っているようです。
セックスと愛とを混同していることにも原因があるように思います。
一般にはセックスも愛もあまり意識しては区別されていないようですが、人間は多重的な意識を持ち、肉体的レベルから感情的レベル、精神的レベル、霊的(魂)なレベルまで、さまざまなレベル(層)があります。
肉眼に見えるものしか信じられず、肉体的な物質的なレベルだけに固執していると、肉体的、物質的なレベルでしかものごとを考えられなくなります。
しかしOshoは、それらのすべてのレベルについて詳細に、さまざまな言い方で言及しています。
「セックスから超意識へ」のなかでは、セックスから愛へ、そして祈り、超意識へと移行することが述べられています。
セックスはそれらの準備ないしベースではあって、愛とは区別されています。
Oshoはここで愛のひとつの基本条件を語っています。
この基本的条件は、自分が相手の人を愛していると思うなら、これが愛なのかどうかを識別するひとつの基準にもなるでしょう。
ここで気をつけなければならないのは、たとえそうではないからといって、自分や相手の人を批判したり非難しないことです。
ただ、自分が愛だと感じていたものは、実はそうではないということを知って、愛という境地があるということを知るだけでよいと思います。
それが愛というものでなくても、問題ではないのですから。
愛とはこうあるべきだとか、愛でなければならないなどと決めつけると、おかしなことになります。
人は今いるところからしか成長することはできないのですから、今ある自分の感情の状態は素直に認めればよいのだと思います。
シュンニョの手記などを通してOshoの在り方を見ていると、Oshoはほんとうに愛の人なんだということは強く感じます。
Oshoは語ります。
愛は自由をゆるす
愛は相手がやりたいと思うことは
何でもゆるす
やりたいと思うことは「何でも」──
それがその人を至福で満たすなら、
その人の自由だ
あなたが相手を愛しているなら
相手のプライバシーには介入しない
相手のプライバシーを損なわないようにする
相手の内的な存在に侵入しようとはしない
愛の基本条件は
「私は、あるがままの相手を受け容れる」
ということだ。
そして愛は
けっして自分の考えに基づいて相手を
変えようとはしない
相手をあちこちで切り刻んで
相分の好みのサイズにしたりはしない──
ところが、それは世界中いたることろで
行なわれている
あなたが愛しているなら
何の条件もつけるべきではない
愛していないなら
条件をつけるあなたとはいったい誰だろう?
どちらにしても明白だ
愛しているなら
条件をつけることなど問題外だ
あなたは相手のあるがままを愛する
愛していないなら
それでも問題はない
相手はあなたにとって誰でもない
条件をつけることなどあり得ない
相手は何でも望むことをしてかまわない
嫉妬が消滅し、しかも愛が残るなら
あなたは人生において
持つに値する確固たるものを手に入れたことになる