Oshoの言葉を読んでいると、なるほど、そういうところに根本原因があったのか、と目からウロコの発見が往々にしてあります。
怒り、憎しみ、嫉妬、所有欲、悪賢さといったことについても、その根本原因は、それが動物的本能に根ざしているというふうに言われると、なるほどそうかと納得でした。
それだけに、それらは根深い無意識に属しているので、そう簡単には解放されないわけですね。
そのうえ、人間は人間性といったものを持ち合わせていて、それらは動物的本能とは正反対の質を持っているとなれば、人間がその分裂に悩むのはなおさらのことです。
人間の進化の歴史からいえば、動物的本能の歴史の方がはるかに長いわけで、それに比べれば、人間性の質なんて、まだ表面的な話でしかないということを自覚しておくのは、大切なことのように思われます。
だからこそ、瞑想が大切になってくるのでしょう。
というのは、瞑想こそが、動物的な過去よりもさらに深く、存在の本質に根ざす愛、真実、自由、無欲、慈愛という本質につながる方法だからです。
これは私の解釈なのですが、愛、真実、自由、無欲、慈愛が、人間性の質として観念的に(理想として)追求するものである場合は、それは「たんに表面的な話」であり、深い無意識に根ざした動物的本能と相反するものとなってしまいます。
そうすると、人間の宿命として、人間の意識は動物的本能に根ざした「怒り、憎しみ、嫉妬、所有欲、悪賢さ」という意識と、人間性に根ざした「愛、真実、自由、無欲、慈愛」という意識とが分裂してしまいます。
そうなると、私たちの社会に存在する分裂、戦争、闘争や階級、肌の色、階級、宗教、国家による分裂は、それらの人間の意識のなかの分裂を反映したものだということになってしまいます。
そこでOshoは、「分裂は、まず個人のなかで落とされるべきだ」と語ります。
そして、「それを落とすことは実際に可能だ」と語ります。
それは、どのようにして可能なのでしょうか?
それは瞑想を深めることによって、動物的な無意識の本能と、人間性の質の分裂よりもさらに深い、存在の本質に根ざした宇宙的な愛や真実、自由、無欲、慈愛の意識、すべてはひとつであるという意識にまで到達することによって可能になるのだと思われます。
禅の瞑想で探求する無や無欲の世界、ヨガの瞑想による宇宙の意識と結ばれること、すべてがひとつとなる意識、仏教では仏性と呼ばれたり、空の意識であったり、キリストの説く愛であったり、ハート瞑想では意識の中心と呼ばれたりと、さまざまな呼ばれ方がありますが、それらはすべての分裂を超えた境地を指しています。
Oshoは語ります。
人はいまだに
怒り、憎しみ、嫉妬、所有欲、
悪賢さといった
多くの動物的本能を持っている
人の内面に存在し
非難されてきたこれらのものすべては
非常に根深い無意識に属しているようだ
そして、スピリチュアルな錬金術が行なっているワークのすべては
いかにしてこの動物的過去から免れるかということだ
動物的過去から免れないかぎり
人は分裂したままにとどまる
動物的過去と人間性は
ひとつのものとして共存できない
人間性は、まったく正反対の質だからだ
だから人は偽善者になるほかはない
社交儀礼に関するかぎり
人は人間性の理想に従う
─愛、真実、自由、無欲、慈愛―
だが、それはたんに表面的な話であり
いつ隠れた動物が顔を出すか知れたものではない
どのような偶然でも表面化するのに充分だ
しかも、表面に出るかどうかにかかわらず
内面意識は分裂している
この分裂した意識は
「個人において調和の取れた全体になる
にはどうすればよいか」
という渇望と、疑間を生み出してきた
そして社会全体にも同じことが言える
社会を調和の取れた全体にするには、
どうすればよいか?
―戦争もなく、闘争もなく、階級もなく
肌の色、階級、宗教、
国家による分裂もなく―
私たちは、いつの日か
社会のすべての分裂を落とすことができるとすれば
それが唯一残された道だ
だが、分裂はまず個人のなかで落とされるべきだ
─それを落とすことは実際に可能だ